山あいの温泉旅館

2005年7月に岩手県、花巻温泉のホテル紅葉館に泊まったときに、窓から写した写真です。正面に写っている建物は「松雲閣(しょううんかく)」と呼ばれ、天皇陛下も宿泊されたことがある旅館だったそうですが、数年前に営業を中止し、現在は、この建物の右手に広がる「ローズ&ハーブガーデン」の一部となっているようです。わたしが訪問したときには、盆栽などを建物の周りに展示していたため、建物を近くから見ることができましたが、いつも解放しているとは限らないと紅葉館の方はおっしゃっていました。そのときには、花巻には2泊したのですが、翌日は花巻出身の宮沢賢治や、昭和20年から27年(62歳から68歳)まで花巻に疎開・定住していた高村光太郎がよく訪問していたとされる、大沢温泉の菊水館(下の写真)に泊まりました。

大沢温泉とは、地名であると同時に、三つの旅館(高級な方から、山水閣、菊水館、自炊部)の総称ともなっています。わたしが2度訪問してこれら三つの旅館を利用した経験によれば、宿泊客は、山水閣の二つの浴場を除いて、相互にどの旅館の浴場でも利用可能となっていました。下の写真は、自炊部の大沢の湯です。混浴なので、入ったことはありませんが、清掃作業中だったので、旅館内の橋(曲がり橋)から写させていただきました。この橋の辺りの景色は、花巻観光協会のパンフレットで、「花巻八景」の一つに選定されていました。宿泊料金は、山水閣1室2名利用で1人14,850円から18,000円まで(休前日は1,575円増し)、菊水館は7,290円から10,230円(休前日は1,050円増し)、自炊部は2,002円から2,517円までとなっています。ただし自炊部に泊まるためには、寝具を借りる必要があり、そのため1,500円くらい必要です。自炊部に泊まっても、食堂が併設されているため、妥当な価格で3食を済ますことができます。大沢温泉の特徴は、この自炊部にあるようで、「湯治」が可能な旅館はほかではもうほとんど残っていないそうです。最近では、学生の団体が宴会に使うなど、意外な利用法もあると、山水閣の津田さんはおっしゃっていました。貴重な文化遺産かも知れません。

花巻を訪問したのは、宮沢賢治のゆかりの場所を訪問するためでした。下は、市内にある生家跡(現在の同市豊沢町4号11番地)です。宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日にこの地で生まれました。生家は、太平洋戦争終戦直前の1945年8月10日に戦災で焼失し、その後2回建て直されたそうです。写真のお宅には弟の清六氏とそのご家族が住んでいらっしゃったのですが、清六氏は、2001年6月12日に97歳で他界されたそうです。

下の写真は、北上川と猿ヶ石川の合流地点で、地層がイギリスのドーバー海峡沿岸に似ているため、宮沢賢治が「イギリス海岸」と名付けた場所です。渇水期には、地層が河川敷に表れるそうのですが、訪問したときは、梅雨時で増水していたため、地層は画面中央部の合流地点に露呈しているのが見えるだけでした。

宮沢賢治は、1918年(大正7年)に盛岡高等農林学校を卒業したあと、1920年(大正9年)には、かなり国家主義的色彩が強かった、日蓮主義の在家仏教教団、「国柱会」に入会し、死ぬまで会員であり続けました。宮沢賢治の一途な純粋さには、教団の影響があったのかも知れません。1921年(大正10年)12月には、稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校(現、県立花巻農業高校)の教諭となり、1926年(大正15年・昭和元年)3月に依願退職するまで、4年4カ月勤務しました。詩集『春と修羅』や童話集『注文の多い料理店』が出版されたのは、この間でした。

宮沢賢治は、『芸術は生活であり、生活はまた同時に芸術化されなければならない』と考えて、退職後、同市の下根子、桜の宮沢家別邸で、農耕自炊の生活を始め、同所に『羅須(らす)地人協会』を設立しました。ただし、『羅須』には特に意味はないと賢治は言ったそうです。この場所には、現在では『雨ニモマケズ』の碑が建っています。また、建物は現在では、花巻農業高校校内に移設されていて、見学可能です。この建物の壁の黒板には、下の写真にありますように、『下ノ畑ニ居リマス、賢治』と書かれています。

建物の内部に入ることもできますが、ここに展示されていたマント(下の写真)について、稗貫農学校第2回生の照井謹二郎氏が、『生誕100年記念・宮沢賢治の世界展』の図録に書かれていますので、引用させていただきます(同書87ページ)

厚手のラシャのフード付きマント。大正12年の冬、当時花巻農学校の教師であった賢治は、防寒具も持たずに寒さに震えていた生徒簡悟(大正13年卒)に「これを着ていなさい」と自分のこのマントを優しく着せかけたといわれている。簡は終生、賢治の温情に感謝し、このマントを大切にしていた。現在、花巻農業高校内の羅須地人会の建物の中に「風の又三郎のマント」と題して展示されている。

下の写真は花巻農業高校の正門ですが、「ワレラ ヒカリノ ミチヲフム」は、賢治が作詞した、同校の校歌『花巻農学校精神歌』の最後の一節で、『花農90周年記念誌抄、マコトノ草ノ種マケリ、師父賢治先生回顧』に載っていた、瀬川哲夫氏(県立農学校2回生)による、「精神歌私感」(同書62ページ)によれば、「われわれは、光が明るく真っすぐにすすむように、自然の真理の法にかなった道を歩もうではないか。それがわれわれの行くべき道なのである」という意味だそうです。

2006年9月には、建物の前に賢治の銅像が建てられました(2006年12月に撮影しました)。

下の写真はやはり2006年12月に訪問した、『高村山荘』です。花巻駅の西約10km、駅からバスで40分ほどの場所にあります。彫刻家・詩人として名高い高村光太郎(1883−1956) は、1945年(昭和20年)4月13日に、東京のアトリエが空襲で焼失したため、5月に賢治の弟の静六氏宅に疎開したのですが、8月には宮沢家も戦災に遭ったため、10月にこの山荘に住み始め、その後、十和田湖畔の裸婦像制作のために東京に戻るまでの7年間をここで生活しました。

写真右手の建物が、山荘の第二套屋(とうおく、引用者注:貴重なものを保護するために、そのものを覆うように建てられる建物)で、内側にさらに第一套屋があって、山荘はそのさらに内側にあります。非常に簡素な作りの小屋で、ここに移り住んだときには、すでに、彫刻と詩の大家であったことを考えると、驚くべきことだと思います。しかも、下でご紹介する「案内」という詩からも分かりますが、光太郎はこの山荘での生活に積極的な意味を見いだしていたようです。


案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋(引用者注:流し、最近ではシンクとも言うようです)。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
いまはキャベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突きあたりの辺が
金華山沖ということでしょう。
智恵さん(引用者注:死別した妻、智恵子さん)気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さんこういうところ好きでしょう。


福島県出身の智恵子さんについての、有名な、次の詩もついでにご紹介させていただきます。

あどけない話

智恵子は東京に空が無いという。
ほんとの空が見たいという。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言う。
阿多多羅山(あたたらやま、引用者注:現在の安達太良山(あだたらざん)で、福島北部にある火山)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子の本当の空だという。
あどけない空の話である。


わたしのような北海道出身者からみると、東京の空は(正月や台風の通過後などの最も好条件のときを含めて)どんな晴天でも霞んでいるような感じがするため、「ほんとの空が見たい」という智恵子さんの気持ちはよく分かります。智恵子さんの意見を「あどけない」と表現できたのは、この詩が書かれた頃(この詩が収載されている詩集『智恵子抄』の刊行は昭和16年(1941年))には、大気汚染がそれほど深刻でなかったためか、この問題の深刻さがまだ認識されていなかったためではないかという気がします。

山荘の近くには、光太郎、智恵子の遺品や、彫刻、書画、紙絵、資料、位牌などが収蔵されている「高村光太郎記念館」、坂を登れば、「智恵子展望台」があり、光太郎は月夜にはここで智恵子を呼んだと伝えられているそうです。

(2007年1月7日)

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