夕方のアウダーチェ桟橋

北イタリアの東の端にあるトリエステを2019年5月に訪問したときに、同市のアウダーチェ桟橋(Molo Audace)を陸側から夕方に写した写真です。トリエステを訪問したのは、イタリアの精神医療改革を推進した、偉大な精神科医である故フランコ・バザーリアが院長を務めていたサンジョバンニ精神病院の跡地を訪問するためでした。この旅行ではイタリア4都市の精神病院の跡地を訪問しましたが、その際に写した写真は『イタリアの精神病院「遺跡」』に載せました。

昼間に桟橋から市街を写したものですが、この桟橋はトリエステの中心部にあり、市民の憩いの場となっているようです。上の写真で、ベンチを囲んで話をしている3人の女性の一番右側の方の頭から右側で、建物がセットバックしているように見える場所が、トリエステの中心となっている「イタリア統一広場(Piazza Unità d'Italia)」です。イタリア統一広場は皇居前広場のような感じで、一番奥に見える市庁舎などの立派な建物に囲まれていますが市民は足早に横切っている感じで、広場でのんびりしている感じの人は観光客が多いような気がしました。

これに対して、すぐ近くのこの桟橋は市民の憩いの場所となっているようです。長さ246m、幅約25mのこの桟橋の最大の特徴は船は停泊しないという点で、もっぱら市民が散歩したり、のんびりとした時間を過ごすための公園のような場所になっているようです。

上の写真は桟橋の先端部分です。中央付近に写っている白いテーブルのようなものは、展望台などによくある方位盤(rosa dei venti)でその上面には、「イタリア王立海軍の(駆逐艦)アウダーチェ(イタリア語のアウダーチェ/audaceは、英語のオーデシアス/audaciouseと同様「勇敢な」という意味の形容詞ですが、フランス語のオダス/audaceは大胆さという意味の名詞です)が1918年11月3日にイタリア艦船としては初めて停泊した」と書かれています。この駆逐艦の寄港を記念して桟橋の名前がアウダーチェ桟橋に1922年3月に改名されました。イタリアの艦船が初めて停泊することになったというのは奇異に感じられると思いますが、第一次世界大戦(1914年7月28日から1918年11月11日)まではトリエステはオーストリア=ハンガリー帝国の一部で(つまりパプスブルグ家の統治下にあり)、同国最大の港湾都市でした。そのため1918年まではイタリアの艦船は寄港しなかったようです。また、第一次世界大戦後はイタリア領となりました。余談ですが、この駆逐艦は最初は日本海軍がイギリス・グラスゴーのヤーロウ社へ建造を発注し、1914年9月12日には「江風(カハカセ、現代語表記ならカワカゼ)」と命名されましたが、重要部品が入手できなかったため使用価値が低下したという理由で、駆逐艦が不足していたイタリア海軍に1916年7月に売却されたものだそうです(wikipediaのアウダーチェ (駆逐艦・2代)の項)。

アウダーチェ桟橋に改名される前はサンカルロ桟橋と呼ばれていました。サンカルロというのは1740年に現在桟橋のある場所で沈没した船の名前で、船の残骸を取り除く代わりに桟橋が建設されました。桟橋は最初は95mの長さでしたが、1778年に19m、1861年にも132m延長されて、現在の246mの長さになったそうです(wikipediaイタリア語版、Molo Audaceの項)。

イタリアを代表する詩人の1人で、トリエスト出身のウンベルト・サバ(Umberto Saba、1883 - 1957)には、この場所を賞賛した「桟橋(Il molo)」という詩があるようです。この詩が収載されている詩集、「僕の目で(Coi miei occhi)」(1912年)の出版当時の桟橋の名前はサンカルロ桟橋でした。

「私にとって、世界の中で
ここ以上にいとおしく、安心できる場所はない。
サンカルロ桟橋以上に、私に孤独を忘れさせてくれたり、親しみを感じさせてくれ、
私が波や岸辺を愛でることができる場所は他にあるだろうか?」 
 «Per me al mondo non v'ha un più caro e fido
luogo di questo. Dove mai più solo
mi sento e in buona compagnia che al molo
San Carlo, e più mi piace l'onda e il lido?»
 (ウンベルト・サバ、「桟橋」、第1-4行、翻訳:小倉正孝)  (Umberto Saba, Il molo, vv.1-4)

この詩の日本語訳は見つかりませんでしたので、自分で翻訳して、ボローニャのマルゲリータさんにチェックしていただいたところ意味は合っているとのお話でしたので載せました。イタリア語では韻が踏まれていて、リズム感もある点などは残念ながら翻訳には反映できませんでした。

下の写真はアウダーチェ桟橋から直線距離で300m位に位置して、大運河(Canal Grande)にかかっているポンテロッソ(赤い橋)の上にあるジェームズ・ジョイス(1882-1941)の銅像です(ジョイスについては、「『ブルームズデイ 100』をのぞいてきました」もご参照ください)。20世紀最大の小説家の一人であるジェームズ・ジョイスの代表作である『ユリシーズ』の最後の行は、"Trieste-Zurich-Paris, 1914-1921"という添え書きであることからも分かるように、この小説はトリエステで最初の数章が書かれました。ジョイスがトリエステに到着したのは1904年10月20日でしたが、最後にトリエステを離れた1920年まで、一時的にチューリッヒやローマに移住したこともあったため断続的とはいえ、前後16年間にわたってトリエステに滞在しました(ジョイス一家のトリエステでの生活はパット・マーフィー監督、ユアン・マクレガー、スーザン・リンチ主演の『ノーラ・ジョイス 或る小説家の妻』〔原題は"Nora"〕という映画に詳細に描かれています)。ジョイスはトリエステで暮らしている間に、『ダブリンの市民』の大部分、『若い芸術家の肖像』のすべて、『ユリシーズ』の最初の数章など、主要作品の重要な部分の多くを仕上げました。市内には「ジョイス博物館」があり5ユーロで販売している小冊子に、ジョイスが住んでいた場所の地図が載っていましたので、住んでいた場所を訪問することも可能です。この博物館の正式名称はジョイス・ズヴェーヴォ博物館(Museo Joyce & Svevo) で、ジョイスに個人的に英語を教わっていたトリエスト生まれの小説家兼銀行員であった、イタロ・ズヴェーヴォ(Italo Svevo、1861-1928、本名はAron Hector Schmitz)の博物館ともなっています。

ジョイスがトリエステに来ることになったのは、母国アイルランドの閉塞性に対する嫌悪感があったらしいことのほかに、将来の妻となるノラ・バーナクル(1884-1951)との結婚を父に反対されたため、2人で駆け落ちして、その最終的な落ち着き先がトリエステになったためのようです。ジョイスがノラと知り合ったのは、1904年6月10日にフィンズホテルのメイドをしていて、美貌でしたが無教養のノラがダブリン市内のナッソー通りを歩いていた時に、ジョイスが声をかけた(ナンパした)ためで、その後6月16日にサンディマウント海岸で初めてデートをしましたが、そのデートの日付1904年6月16日が、ユリシーズが描かれた1日(ブルームズデイ)とされたようです(このことは「『ブルームズデイ 100』をのぞいてきました」にも書きました)。つまり、ノラと知り合ってからわずか4カ月で駆け落ちしたことになります。ジョイスはトリエステでは最初は、ベルリッツなどの語学学校の英語教師によって生計を立てていましたが、この間に1905年7月には長男のジョルジオ(Giorgio、ただし、本人はジョージ、Georgeという英語の名前を好んで使ったそうです)が生まれ、1905年10月にはジョイスの弟であるスタニスロース・ジョイスがダブリンを出て兄家族と合流して、その後放蕩癖のある兄の家族を経済的に支えることになり、1907年6月には長女ルシア(Lucia、後に統合失調症となったためジョイス一家は治療のために大変苦労することになりました)が生まれました。生活はジョイスの浪費癖のために苦しかったようですが、一家はトリエステでの生活を楽しんでいたという面もあったようです(『ジェイムズ・ジョイス辞典』〔松柏社刊〕、などを参考にしました)。

上の写真はかつてイタリア領内唯一のナチスドイツ強制収容所であったリジエラ・ディ・サン・サッバ(Risiera di San Sabba)を復元した国立博物館の入り口です。リジエラは精米所、サン・サッバはこの場所の地名です。精米会社が1898年にこの土地を購入して1913年に精米所を建設しましたが、1934年には精米所としての機能は停止しました。その後はイタリア軍が補給所として使っていましたが、第2次世界大戦中にはナチスドイツが強制収容所に作り替えました。戦後は一時「鉄のカーテン」の東側(つまり社会主義諸国)から逃れてきた難民の収容所に使われていましたが、1965年に強制収容所の跡地として国立博物館になりました。余談になりますが、「鉄のカーテン」という言葉は、1946年に東西冷戦が始まったことを当時のイギリスのチャーチル首相が宣言した際に初めて使われましたが、その演説では「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが下ろされた」と述べられていることから、トリエステは鉄のカーテンの南の端という、非常に微妙な位置にあったことが分かります(wikipediaのトリエステの項)。

強制収容所になったのは1943年9月8日でしたが、この収容所での犠牲者は少なくとも2,000人以上、最大5,000人と推定されています。収容者は、絞首、射殺、ガス室、こん棒による撲殺などの方法で殺害されるか、ドイツやポーランドの基幹収容所に送られました。殺害は通常夜間に行われ、周りが住宅地なので、悲鳴が響かないように大音量で音楽を流したそうです(同博物館の説明書)。

これは博物館に展示されていた、射殺されたスロベニア人の収容者が家族に書いた最後の手紙のプレートです。

「大切なおかあさん、1945年4月5日、
手紙を書いているのは、ぼくは今日射殺されることになったためです。
これが永遠のお別れです。

大切なおかあさん さようなら
大切な妹(または姉さん) さようなら
大切なおとうさん さようなら」

と書かれています。

この収容所にはナチスドイツに抵抗したイタリア人、スロベニア人、クロアチア人のパルチザンも収容されていました。ナチスドイツは退却する際にこの収容所を爆破したため、この場所は開放されたときにはがれきの山になっていましたが、2013年の修復工事の際に9号室(cell number 9)の中で、上の写真のパルチザンの「赤い星」が発見されました。(パルチザンの「赤い星」については、「ボローニャのサラボルサ図書館」のパルチザンのコメントもご参照ください)。

右手の柱のようなモニュメントは火葬炉のあった場所を記憶するために建てられたものです。

左手の小部屋に、ユダヤ人やパルチザンが収容され、拷問を受けていたそうです。この博物館には年間約10万人の訪問者があるそうですが、訪問した日もたくさんの学生/生徒が見学していました(2021年2月28日)。

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