問題64(社会)の答え・・・( c. 30)倍が正解です。94年の日本のコンクリート生産量は9,160万トンと、アメリカの7,790万トンを18%上回りました(52ページ)。コンクリートの輸出入はほとんどないため、生産量は使用量と同じと考えられますから、日本は国土面積が25倍のアメリカよりも多量のコンクリートを使っていることになり、単位面積当たり使用量は米国の30倍となります。

このように途方もない規模で国土破壊が進行し、「ひょっとすれば世界で最も醜いかもしれない国土」(21ページ)となってしまったのは、官僚や自民党政権が土建屋と結びついて利権を利用して、談合で入札価格を不当に高く維持したり、口利き料、付け届けなどの、リベートを受け取ったり、不要な天下り先を乱造し続けてきたからです。さらにその背景には、「日本の魂そのものが相当深い病を患っている」可能性があり、これは「文化の病」と表現した方が適切ではないかとアレックス・カー氏は主張しています(13-14ページ)。

ところで、この本のタイトル『犬と鬼』というのは、中国古典の『韓非子(かんぴし)』に出てくる故事からとったそうです。皇帝が宮廷画家に「描きやすいものは何であるか、また描きにくいものは何であるか」と聞いたところ、画家は「犬は描きにくく、鬼は描きやすい」と答えたそうです。「つまり、私たちのすぐ身近にある、犬のようなおとなしく控えめな存在は、正確にとらえることが難しいが、・・・・派手で大げさな創造物である鬼は、誰にだって描けるものだ。現代の諸問題の基本的な解決は地味なだけに難しい。ところが派手なモニュメントにお金をつぎ込むことは簡単なのだ」(12ページ)

アレックス・カー氏は、日本の物事のやり方には、すべて「実(じつ)」がなく[つまり、内容がなく「鬼」ばかり]であり、その意味で日本は、「近代化に失敗した例」であると指摘しています(381ページ)。

「実」がない例として以下の分野が挙げられています(381ページ)。土木工事(目的もなく進める)、建造物(周りの環境とニーズに無関係)、教育(歴史や方程式を暗記させ、独自の想像力や分析力を教えない)、街並み(古きを壊す)、株式市場(配当を払わない)、不動産(利潤を生まない)、大学(就職までのつなぎ・社会に貢献しない)、国際化(世界を締め出す)、官僚制(真のニーズに関係のないところで金を使う)、企業のバランスシート(粉飾決算)、環境省(環境保護に無頓着)、薬品(テストされていない模倣薬)、情報(あいまい、秘密、うそ)、空港(人間には適さず、大根には適す)。それぞれの問題点は本文に詳しく説明されていますので、特に重要とみられる点だけをご紹介して、以下では「文化の病」のことを中心にご紹介します。

「和」を尊重するといいながら、極端に突っ走る

日本の魂や文化が患っている病気は一言で言えば、アレックス・カー氏の持論である「逆徳精神」という言葉で表されるようです。逆徳精神とは、ある国が最も誇りにしている美徳で、実はその国に最も欠けているものを言うそうです(238ページ)。この例としては、「平等」を旗印にかかげた共産ロシアでは、人民委員は黒海沿岸に贅沢な別荘を所有し、一方プロレタリアートは農奴と大差ない暮らしをしていたことなどが挙げられています。

日本の「逆徳精神」の代表例が、「和」の精神だとアレックス・カー氏は考えています。「『和』とは、調和、安定、すべてが所を得ていることを意味することばである。「足るを知る」と言い換えてもいい。しかし、明治維新以降の日本史にまつわりついて離れない皮肉は、日本が平和と調和とは全く正反対の道を進んだということだ」(238ページ)

19世紀末から、近隣諸国の植民地化を進め、ついには「真珠湾に自殺的な攻撃を仕掛け、その結果としてすべてを失った。90年代にもこれと似たようなことがまた起きている。日本が「和」をこれほど尊ぶのは、バランスを失って極端に突っ走る傾向が強いという、まさにそこに理由があるのかもしれない」と指摘されています。「コンセンサスや遵捧(じゅんぽう:目上の人に言われた事などをよく守ること)が重視されるために、責任者がだれもいないという状況が生まれる。一度進み出したら、日本はもう止まらない。舵手(だしゅ、かじを取るひと)がいないから、国家という船が進み始めると、ギヤをバックに入れ直すことのできる者がいない。船はどんどん速度をあげていき、ついには岩に激突してしまうのだ」(239ページ)

上で「90年代にもこれと似たことがまた起きている」と述べられていますが、今度の場合は帝国主義的野心つまり領土拡張ではなく、「工業化と建設を唯一の国家目標にかがげ、日本はみずから国土に襲いかかり、山や谷をブルドーザーで攻撃し・・・港を埋めた。巨大な工業戦艦に化したも同然だ。速度を落とす者がいないまま、戦艦は全速で壮大な難破に向かって進み続ける」(239ページ)

世界の流れと逆方向に暴走

2001年の公共事業支出のGDPに対する比率は、日本では9%超であるのに対して、アメリカは1%未満であるため、日本の公共事業費のGDPに対する比率は米国の10倍となります(26ページ)。

問題3(経済)答えでご紹介した、94年のデータでは、この倍率は4.6倍(6.4%対1.4%)、75年では2.5倍(5.3%対2.1%)でした。米国などの先進国では、公共事業のGDPに占める比率は低下傾向にあります(75年、94年、2001年の順に、米国では、2.1%、1.4%、1%未満)。これに対して、日本ではこの比率が、5.3%、6.4%、9%超と、水準自体がかけ離れているだけでなく、急拡大している点が特徴です。つまり、日本は世界の流れと逆方向に、ますます勢いをつけながら暴走し続けているようです。問題3(経済)の答えでも触れましたが、この暴走による最大の被害者は「福祉」であり、国民の生活ということになります。

「日本が土木建設に費やす金額は、アメリカが軍事につぎ込む金額よりはるかに大きい。・・・そのため「土建国家・日本」という言い方さえあるほどた。巨額の補助金が建設に流れ、驚くことに、国の歳出予算のなんと40%が公共事業に充てられている(アメリカでは8〜10%、イギリスやフランスでは4〜6%)」そうです(26ページ)。

「日本で公共事業が急激に膨れあがったのは、関係者にとってうま味が大きいからだ。談合や付け届けはあたりまえで、それを通じて何百億円もの金が政党に流れ込む。政治家にはかなりの口利き料が渡る(一つの公共事業につき、ふつう予算の1〜3%と言われている)」と指摘されています(26ぺージ)。田中角栄元首相(田中真希子氏の父上)には、受注金額の3%のリベートを渡すことになっていたと述べたゼネコン役員がいたことについては、問題9(政治)答えにもご紹介しました。最近の報道によれば、3%というリベート率は現在でも生きているようです(日経新聞で読んだ記憶があるのですが、どの記事だったか思い出せません)。

さらに、「税務署は、企業の経費として「使途不明金」(すなわち政治家や官僚への賄賂[わいろ])を認めている。ちなみに、建設業界では、使途不明金の額は年間何百億円にものぼっている(138ページ)」そうです。経費として認めるということは、税金をその分免除することになります。もしこれが本当なら(私の記憶では経費とは認められていないような気がしましたが)、税務署も賄賂の提供に協力していることになります。全く、あきれた国です。

下は、柴田敏雄氏の「岐阜県郡上郡大和村1997年」(写真集『VISIION of JAPAN』より)という写真で、『犬と鬼』の表紙からコピーさせていただきました。典型的な日本の山村の風景のようですが、多くの外国人には信じ難い現実かもしれません。


「犬と鬼」プロジェクトの実例

この本には、メチャクチャな公共事業の例が多数挙げられていますが、イマジネーションに富んだ実例を二つご紹介します。

全国に9カ所もある「大根空港」

最も奇想天外な例が「大根空港(正式名称は『野菜専用空港』)」の話です。農林水産省は全国9カ所に大根空港を建設しましたが、これは典型的な「犬と鬼」プロジェクトであると、アレックス・カー氏は述べています。「その目的は、地方から大都市への野菜の輸送を高速化し、農業の生産性を高めることだった(150ページ)」そうです。日本のような狭い国土で、単位重量当たりの価格が安い野菜の輸送を高速化するときに、航空輸送を考えるという発想は、常識人の空想力を超えています。ICのように、単位重量当たりの価格が高く、航空輸送しても、販売価格に占める輸送費の比率があまり高くならない場合には、航空輸送を考えるのが当然ですが、大根のように重さの割に安いものを、航空機で運んでも、輸送時間が短縮された分だけ高く売れることもないため、コストが増えるだけで全く意味がありません。

普通の発想ならば、「輸送を高速化」する場合には、コストの安い現在のトラック輸送の高速化を考え、次に航空輸送を考える場合でも、まず、初期投資のあまりかからないヘリコプターによる輸送を考えるのが当然だと思います。しかし、それらは無視して、いきなり巨大な滑走路を9本も建設する辺りは、日本の官僚の"政策立案能力の高さ"にあきれてしまいます。

また、空港のように、大きな投資を必要とする輸送設備を、特定の商品のためだけに建設するというのはあまり聞いたことがありません。しかも、価格の安い野菜のための専用空港ということになれば、これは世界史に残る"偉業"となるのかもしれません。

テレビでも放送されていましたが、案の定、これらの空港はほとんど使われていないようです。大根空港の一つである笠岡空港から数十キロしか離れていない岡山に、申し訳程度に野菜が空輸されているそうですが、輸送コストがトラック輸送の6〜7倍もかかる上、空港でトラックに積み替える作業の手間がかかるため、輸送にかかる時間もトラック輸送とほとんど変わらないそうです(151ページ)。つまり、全く高速化されていないことになります。

これだけ、目的と手段と結果が三者三様にかけ離れたプロジェクトは聞いたことがありません。こんなものは、プロジェクト(計画)と呼ぶに値しないと思います。この空港によって恩恵を受けるのは、農民でも、流通業者でも、消費者でもなく、官僚・政治家・土建屋の複合体だけなのは明らかです。おまけに、9カ所の空港のコスト総額は、今後の補修費用も含めると数百億円に達するそうです。従って、納税者こそ物言わぬ最大の被害者ということになります。

展示点数が3点の「現代美術館」

総務省の地域総合整備事業債(地総債)によって、ホールや美術館などのモニュメントを地方自治体が建設する場合には、地方自治体は建設費用の75%までを政府から借りることができ、利息も30〜55%は政府が肩代わりしてくれるそうです(245ページ)。この資金を利用するために、とんでもないモニュメントが建設されているようです。

90年代前半、岡山県奈義(なぎ)町は書道の美術館を建設する構想を打ち出したそうです。ただ、「計画を進めるうちに建物も著名な建築家に頼まなければいけない、となった。そこで相談したのが、世界的に知られる建築家の磯崎新(いそざき・あらた)氏。磯崎氏は自分で構想している美術館がつくれるならやってもいい、と提案した」そうです(246ページに引用されている、ジャーナリスト、中崎隆司氏による『AERA』の記事)。

結局、「奈義町は磯崎の条件を呑んだが彼の設計したものは難解すぎてだれにも理解できなかった。こうして町に建ったのは、「現代美術館」で、展示作品はたった3点。うち2点は磯崎の知り合いの作品で、もう1点は磯崎の妻の作品である。書道作品は、申し訳程度に奥のほうにひっそり展示されている。3点の美術品の値段(しめて3億円)は建設費に含まれていたが、磯崎は作家に支払った額の内訳を町に知らせていない。建設費の総額は約16億円、町の年間地方税収入の約3倍である(247ページ)」とのことです。

この美術館については、同美術館のホームページ( http://www.town.nagi.okayama.jp/moca/about-j.htm )で概要が分かります。外観はセメント工場かミサイル工場のような感じで、展示品も和洋折衷(せっちゅう)のげてもの、または子供だましという印象を私は受けました。これらが「現代美術」の名に値するかどうか大いに疑問が残るところです。しかし、『ニューヨーク・タイムズ』の建築評論家、ハーバート・ムッシャンはこの美術館を絶賛して、「ともかく訪ねること」を勧める記事を書いたようです(259ページに引用されています)。これに対して、アレックス・カー氏は、この美術館の円筒形の建物の内部の湾曲する壁面に垂直に貼り付けられている竜安寺の石庭の再現模型に対して、「これ以上に陳腐なものは想像できないほど」(260ページ)であると切り捨てています。

いずれにしても、有名建築家の磯崎氏は、けっこうせこい方法で金儲けをしているようですね。

残念ながら、大根空港や奈義町の現代美術館の建設は、例外的な事業ではないようです。高速道路、巨大な橋、新幹線、ダムなどの公共事業の多くは、ユーザーやコストを無視し、まともな将来計画もないまま、官僚・政治家・土建屋(建築家が加わる場合もあるようです)のために、実行されているようですから、大根空港や奈義町の現代美術館と似たり寄ったりではないかと思います。

自然を愛でる心を失った日本人

上では、「和」の精神を「逆徳精神」例として取り上げあげましたが、もう一つの例が「自然を愛(め)でる心」のようです。アレックス・カー氏は、「日本は秋草や紅葉に埋もれた野山を愛でる国で、日本の美と聞いて思い起こすのは地味、繊細、白木、素焼きなどである。だが現代日本はそれとはまったく反対の道を突き進んでいる(38ページ)」と述べています。

「幅1メートルほどの小川が流れていたところに、何十メートルもの幅でコンクリートを敷きつめ、もとの川はU字型水路に変貌する。林道を造るのに、山腹全体を爆破し、川は土手だけでなく河床まで塗りつぶす。国土交通省河川局は、133の河川のうち、三つを除くすべてにダム建設や流路変更を行っている。他の先進工業国と比べるとその違いに唖然(あぜん)とさせられる(22ページ)」・・・「実に摩訶(まか)不思議なことに、これらの道路もダムも山村にとってはほとんど無用だ。建設をやめると補助金が下りなくなるだけだ。何十年も無目的な土木作業が続き、いまではどこの山腹をみても、どこかで土建工事の痕が目に入る。人家から何キロ離れていても、「地滑り被害」は防止しなくてはならない。林業は20年も前に廃(すた)れたのに、まだ建設は続けなければならない。・・・山奥は行き交う車もまばらで、道路を横切って蜘蛛(クモ)の巣が張っている所さえあるのに、役所は谷の崖に発破をかけ、さらに立派な道路を通そうとしている。こうして、わずかに残っていた美しい山々もコンクリートで覆われていく」(23-24ページ)

日本人が、"自然"を尊重していない例として、アレックス・カー氏は、樹木に対する考え方と、カエルの鳴き声に対する苦情、自然素材よりもプラスチックを好む母親の例を挙げています。

樹木に対する考え方

(1)名古屋大学大学院国際開発研究科の重松伸司教授が、神社の森の調査をしていた時に、周辺の住民は教授に対して「この森にも迷惑している。日をさえぎるし、伸びた枝から葉が落ちて、道路や家の前に積もる」と不平を述べたそうです(38-39ページ)。周辺住民は、神社の森を愛でるのではなく、迷惑に感じているようです。

(2)「東京都のある住宅地に欅(けやき)の並木が、丈高く、枝を優美に伸ばしていた。しかし、陽射しはさえぎられるし、秋には大量の落ち葉が出ると住民は苦情を言い、枝で道路標識が見えないとドライバーは不平をもらした。木立をすっかり伐(き)り倒すのが多くの住民の希望だったが、東京都との協議の結果、一部は伐り倒し、残った木も高く張り出した枝を刈り込むということで決着した。おかげで、東京のどこにでもみられる街路樹と同じぐらいの規模に縮小した」(39ページ)。立派な並木も迷惑なようです。

(3)「アジアを旅すると、ホテルやオフィス・ビルで、日本企業が建てたり所有しているところはすぐ見分けられる。その特徴は、[高い]樹木がなく、低いツヅジの垣根が整列していることだ」(206ページ)

(4)[日本の]『枝切り作業で不思議なのは、そのあまりにもラフなやり方だ。日本は盆栽を生んだ国で、その素晴らしいガーデニングの伝統は世界的にも有名である。・・・それなのに、今日の日本で行われているのは、文字通り「めった斬(ぎ)り」である。・・・ただ太い枝を根本からチェーンソーで乱暴に切り落とすだけで、害虫や腐食を防ぐ手だてすら施されていない。・・・神戸に赴任してきたあるアメリカ人ビジネスマンの婦人は「日本へ着いた時は冬だったの。道路沿いに切り株が並んでいるのを見て、胴枯れ病がはやって木が全滅したんだと思ったわ」と語ってくれた』(206-207ページ)そうです。

(5)『シンガポールは高度な都市計画のおかげで「ガーデン・シティ」と呼ばれるまでになったが、日本との最大の違いをひとつ挙げるとすれば、それは樹木の扱いである。チャンギ空港からシンガポール市内まで車を走らせるのは、観光の楽しみのひとつだ。ハイウェイは、広いアーチ型に枝を張った木々に縁取られ、すべて新しく植えられた樹木だ。・・・ウィリアム・ウォーレンの東南アジアの庭園に関する著作では、このハイウェイがアジア庭園の例として掲載されているほどだ』(207ページ)。

(6)『殺風景な街並みに慣れてゆくように、人々は安っぽい工業製品に心地よさを感じるようになる。以前、京都に住むアートコレクターのデイヴィッド・キッドがこんなことを言っていた。「模造の木材にすっかり慣れちゃって、日本人は模造と本物の区別がつかなくなってる。同じものだと思っているんだ」』(209ページ)。

カエルの鳴き声に対する苦情

『京都市には、周辺の田んぼにいるカエルの鳴き声がうるさいという苦情電話がたくさん寄せられているそうだ。京都市環境管理課の板倉豊課長は言う。「カエルを残らず殺してくれと言われます」』(40ページ)

自然素材よりもプラスチックを好む母親

『木や動物だけでなく、自然物全般に「汚い」という烙印(らくいん)が押されるようになっている。東京の店先から目撃したこととして、作家で写真家の藤原新也が書いているところでは、ある母親が「汚いから」と言って幼い息子を手作りの製品から引き離したという。これは「自然素材から手で作ったものより、人の匂いのしない光沢のあるしみひとつしないプラスチックの方を、日本女性がいかに好むようになったか」のあらわれだ、と彼は指摘している』(40ページ)。

環境を犠牲にした経済成長

自然を愛でるのをやめただけでなく、戦後ほぼ一貫して、日本人は環境を犠牲にして経済成長を達成してきたというのが、アレックス・カー氏の考え方です。ある産業廃棄物処理業者は、「日本経済は不法投棄でもっている」と言っているそうです(66ページ)。「日本のように有害廃棄物を規制せずに[昔の話になりましたが]高いGDP[の成長]を達成したのと、厳しく管理して達成したGDP[の成長]とは根本的に質が異なっている」(67ページ)と同氏は述べています。経済成長のために環境が破壊された例として、アレックス・カー氏は、杉の植林、環境汚染、有害廃棄物不法投棄の例を挙げています。以下にこの三つの例をご紹介します。

杉の植林

林野庁が戦後一貫して、広葉樹林(雑木林、ぞうきばやし)を伐採して、(建築)用材として売れる針葉樹を植え続けてきただけでなく、今でも植え続けているために、現在では日本の全森林の約45%が杉と檜(ひのき)の単純林になってしまったそうです(58ページ)。これについてアレックス・カー氏はつぎのように述べています。

「文化的な損失は別にしても、杉の単純林は多くの野生動物を死滅させている。成長の早い用材林の落とす暗い影は下生え[したばえ、木の下に生えている草]を枯死させ、鳥や鹿や兎や狸などの生息環境を破壊する。杉林に足を踏み入れれば、生命の気配もなく静まりかえっているのに気づく。草も低木も少なく、日本の自然林の特徴であるジャングルのような茂りもない。地被植物[地表の雑草・苔(こけ)など]を奪われた山の保水能力は低下し、山を流れ下る川は干上がっている。杉を植林した土地は浸食が激しく、それが崖崩れや川への土砂の流入につながり、ついには恐るべき国土交通省の魔手[ましゅ、悪魔の手、人に害悪を与えようとする手段]が伸びることにもなる(58ページ)」

また、杉植林は「杉花粉症」を生み出し、現在では全国民の10%がこの病気に悩んでいるそうです。また、植林と山出し(原木の搬出)のための「林道」の建設は、「何千億円もの資金を費やして、・・・国立公園を含めてどんな辺鄙[へんぴ]な場所も見逃されず、険しく切り立った崖にまで林道が刻まれている様は目を疑うほどだ」(59ページ)と述べられています。

GDPの1%にも満たない林業を支えるために、林野庁は3兆5,000億円もの負債を抱え込んだだけでなく、1,000万人以上の国民の健康に深刻な影響を及ぼしたようです(59ページ)。中国では、同様な植林計画が失敗した時、林業部が、保存を「生産より重視」して伐採や製材を規制する新法を制定するように国務院[国家の最高行政機関で、全人代と全人代常務委員会の制定した法律や採択した決議を執行する]に要請するという劇的な方向転換を行ったそうです。

しかし、驚くべきことに、林野庁は杉の植林事業をやめるつもりは全くないようです。花粉症対策としては、今すぐに植えても、数十年先に花粉の飛散を減らせるかもしれないという程度の効果しか期待できない、「花粉の少ない杉品種」の開発計画を発表したり、人出不足を補うために「高性能林業機械」を導入しようとしているそうです。

これに対して、京都府立大学の元学長で、森林学者の四手井綱英氏(しでい・つな
ひで、「森の人 四手井綱英の九十年」という本も出ているようです)は次のように述べているそうです(60ページ)。

「植林政策は失敗だった。経済の高度成長時代に、林野庁は急成長の雰囲気に引きずられ、産業面ばかりに気をとられた。・・・森林には産業以外の役割もあるという事実を完全に無視したのだ。木は経済的な利潤のためだけに存在するのではない」

環境汚染

日本は環境汚染"先進国"のようで、水俣(みなまた)病やイタイイタイ病などの環境汚染事件については、海外の学校で環境汚染の授業のときに取り上げられるれようです。「サラエボ・モスタルの近況」でご登場いただいた、田島光梨(ひかり)さんも、イタリア東部のトリエステ近郊にある「United World College of Adriatic」での環境汚染の授業のときに、日本の地名ばかりが出でくるので恥ずかしかったとおっしゃっていました。

水俣病は、チッソ社[2000年9月にみずほホールディングズに統合された、日本興業銀行系列の大手化学会社でしたが、現在は補償金支払いのための借り入れがかさんだこともあって、存続が危ぶまれているようです]が水俣湾に垂れ流した水銀に魚が汚染され、その魚を食べて1,000人以上が亡くなったという事件です。

世界的な写真家のユージン・スミス氏[ニューヨーク近代美術館が1955年に発行した、伝説的な写真集『The Family of Man』には、最後のページの写真を含めて同氏の写真が多数収載されています] は、日系人である妻のアイリーンとともに、1971年9月から1974年11月まで3年2カ月の間、水俣に滞在して、水俣の惨状を世界に伝えました。滞在中に撮った写真をまとめた写真集『水俣』は、米国では1975年5月に、日本ではこれから4年半も遅れて、1979年の末に出版されました。ユージン・スミス氏は、日本を離れてから11カ月後の75年10月にアリゾナ州ツーソンの病院で脳出血のため59歳で死去されました。

この写真集の138-139ページに載っている写真と横の説明文を下に引用させていただきます。「1956年生まれの上村智子は外見は健康な母親の子宮のなかで水銀に冒された。彼女が外界を知覚するのかどうかはだれもわからない。智子はかわいがられ、無視されることがない。家族のものは、生きとし生けるものは生きつづけねばならないのを知っている」。この写真は『The Family of Man』の改訂版にも載っているそうです。私は、これほど人の心を動かす写真はないと思っています。特に母親のやさしい眼差しは、人間の崇高さを感じさせます。



この写真集の日本語版の中の『医学報告』(184ページ)に、熊本大学体質医学研究所助教授(当時)、原田正純氏(現在は、熊本学園大学教授)は次のように書かれています。

「水俣病は、人類が経験した工場廃棄物による環境汚染のうちで最初のものであり、その規模といい、ヒトに与えた影響の悲惨さからいっても最大級のものである」

このため、「ミナマタ」は国際的に公害の代名詞になっているそうです(『犬と鬼』の62ページ)。

水俣病被害者に対する、チッソと国の対応は冷酷そのものでした。医師が症例を発見してから、95年に政府と被害者が和解に合意するまでに40年もの年月がかかりました。アレックス・カー氏も、公害事件の被害者が「生きて判決を聞ける可能性はかなり低い」と述べています。さらに、1972年1月7日にチッソ五井工場に抗議に訪れた、「自主交渉派」の被害者やユージン・スミス氏ら報道陣を、チッソは暴力団に襲わせたそうです(60ページ)。ユージン・スミス氏も、この暴力団に襲われ、カメラを壊されただけでなく、片目が見えなくなる重症を負いました。

その時の様子が、写真集『水俣』に報告されていますのでご紹介します。

「攻撃開始。最初にやられたもののうち私はもっともひどくなぐられた。いや、たぶん私のカメラはもっとひどくやられた。最後の1枚は、できの悪い手ぶれだが、左の男はその瞬間私の股ぐらを蹴りおえ、カメラを取ろうと手をのばしているところ。右の男は私の腹をねらっている。4人の男が私の手足を取って、ひっくり返った椅子の足の上を引きずり、別の6人の手に渡し、今度は私の頭は外のコンクリートにたたきつけられた。ガラガラ蛇の尾を持ってたたきつけ殺すやり方だ。そしてゲートの外へほうりだされた。目がくらみ、私はふらふらしながら起きあがった。殺してやりたいほどの怒りに震えながら。・・・ガラガラと閉まるゲートの向こうに暴徒は腕組みをして立ち、笑っていた」(95ページ)

これほどひどい暴行を受けたことを考えると、暴行の3年8カ月後に同氏が脳内出血で亡くなられたのは、このときの暴行の後遺症が原因ではないかという気がしてきます。

『犬と鬼』によれば、水俣病の調査をしていた熊本大学の医師たちの研究費も削減されたそうです(60ページ)。また、熊本学園大学のある教授の方のお話では、写真集『水俣』に『医学報告』を書かれた原田正純氏が、熊本大学を離れ、現在お勤めの熊本学園大学に移らなければならなくなったのも、水俣病の研究と関係があるそうです。さらに信じられないことに、「93年になっても、すでに公的記録に載っているというのに、文部省(現・文部科学省)は教科書出版社に水俣病やイタイイタイ病の責任企業名を削除するように求めている」(60ページ)そうです。

今でも野放しが続いている

これだけ深刻な被害を引き起こしたにもかかわらず、日本政府は企業中心主義の考え方を改めていないようです。『犬と鬼』によれば、アメリカでは、有害であるため規制されている物質は1,000種類に上るのに対して、日本では数十種類にとどまっているそうです(62ページ)。また、アメリカでは規制物質のすべてが厳しい法のもとに置かれ、コンピュータによる監視が義務づけられているだけでなく、保管と使用の全記録に自由にアクセスできなければならない、と定められているのに対して、日本では、「環境中に廃棄したこれらの化学物質の量を、環境庁に報告することが義務づけられている」だけだそうです。

また、日本では地方公共団体が産業プロジェクトを認可する際には、事前の環境調査は義務づけられていないそうですが、OECD(経済協力開発機構)加盟30カ国のうち、厳密な環境アセスメント法を持たないのは日本だけだそうです(62ページ)。さらに、「有害物を排出する企業に対しても、またその有害物質の処理業者に対しても、政府は規制を課そうとはせず、調査も行わず、厳しい法的措置もとろうとしない。有害物質が見つかっても、処理の資金を出そうともしない」(66ページ)ということは、完全に野放しにしているようです。

国または地方公共団体は、全国至るところで、有害廃棄物の本格的なアセスメントを拒んでいるようです。また、実態を隠すのも平気のようです。例えば、栃木県の那須で野生動物が死に始めたとき、住民は調査を求めたにもかかわらず、政府は水質には問題はないの一点張りだったそうです。那須には、有害でないとされる廃棄物処理場が94カ所もあるそうですが、のちに民間調査会社の調査によって、水から高濃度の水銀、カドミウム、鉛が検出されたそうです(66ページ)。

また、埼玉県所沢市では、92年から94年にかけて、地元の焼却施設から排出されたダイオキシンの濃度が基準値の150倍以上に達していたことを、市と県が共謀して隠していたことが、97年9月に明らかになったそうです(66ページ)。また、東京郊外の多摩地域27自治体で構成する公的機関・谷戸沢処分場組合は、裁判所から公開を命じられたにもかかわらず、水の電気伝導度(汚染の尺度)のデータを今も隠し続けているそうです(66-67ページ)。アレックス・カー氏は「こういう茶番が全国で演じられている」と述べています(67ページ)。

進歩しなければ退化する

「ローマ帝国衰亡史」を書いたイギリスの歴史家エドワード・ギボン(1737-1794)は、「すべて人間に関わる事物は、進歩しなければ退化する」と書いているそうです(220ページ)。「官僚、建築家、大学教授、都市計画者は・・・日本では時間が止まっているということに気がつかなかった。官僚も学者もこのままでいいのだと[バカボンのパパよろしく、とは書かれていませんが]自信満々で、国内外の新しい発想は一切受け付けてこなかった。近代化の中核である「変化」をとらえ損ねたので、近代化の心をなくした」ようです。アレックス・カー氏は日本は「近代化に失敗した例」であると言っていますが、この点からみても、うなずける見方です。問題56(政治・経済)でも触れましたが、変化するためには、われわれ一人ひとりが自らを改革することが出発点となるようです(2002年12月27日)。

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