問題82(宗教)の答え・・・(k. 常識)以外はすべて宗教に近い働きをしていると述べられています。

宗教的なもの

『神この人間的なもの』は、なだ氏が「遺書を書くつもり」で書いたらしい力作です。この本は、なだ氏の大学の同級生で、学生時代にカトリックに入信した精神科医T氏となだ氏との対話という形式をとっていますが、以下では、T氏もなだ氏の分身であると勝手に解釈させていただいて、お二人のご発言はともになだ氏の発言として扱わせていただきます。

なだ氏が宗教をテーマにしたこの本を書くきっかけとなったのは、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件の加害者となった医師や科学者が、「事件後ようやく教団から離脱できた状態が、急性の精神病から回復したときの状態と、非常に似ていたこと」(vページ)だそうです。さらに、「これは・・・オウムという宗教の問題であるよりは、あの医師や、科学者の精神状態の問題だ。・・・戦中派のぼくは、戦争中の日本の狂気と、オウムの狂気とを、同じ視野の中に見ることができた。・・・オウムのかかっていた病気は、戦争の最中、日本のかかっていた病気とそっくりだった。日本は戦争中、オウム同様の宗教的狂気の中にあったし、集団的神がかりの状態にあった。ぼくはそう診断した。』(viページ)。

『オウムを始めとしたさまざまな現代の問題を取り上げるには、宗教を、もう少し拡大してとらえる必要がある。ぼくはそう考えるようになった。/そのぼくの目に、古い宗教の呪縛(じゅばく)から解放されようとして、新しい宗教に呪縛されることを繰り返してきた世界歴史が目に入ってきた。・・・/国家(選択肢a)という宗教、民族(選択肢b)という宗教、革命(選択肢c)という宗教・・・(引用者追記:国家と民族については、問題49(民族)をご参照ください)/だが、そうした呪縛がもたらした、戦争や革命が、ぼくたちの平和な、利己主義的な幸福追求の日常に、何かを突きつけてきたことも確かだ。/ぼくはそうした呪縛から自由になるためには、呪縛された人間の方から、宗教に光を当てていかなければならないと考えた。』(vi―viiページ)

『人間の歴史は狂気と正気の戦いでも、正気と正気の戦いでもなく、狂気と狂気の戦いだ。集団の狂気(選択肢d)ほど強い正気意識を持つものはない。それが宗教だ。その正気意識が凶暴な攻撃性を他の集団に向ける。だから平和主義者を始祖に持つ宗教同士が戦い合った。民主主義も社会主義も宗教だといったのは、そういうことで、自分たちの中にある宗教的狂気の危険を自覚させたいと思ったからだよ。おれたちは、隣り合う民族主義という宗教が、いかに凶暴に戦い合うかも見てきたろう』(184ページ)

なだ氏は、『宗教は集団の狂気』であると述べられていますが、ここでは狂気という言葉を、日常用語とは少し違う意味で使っているようです。この点については、あとから説明します。

『70年代ごろから、社会主義のセクト同士が、内ゲバ(引用者追記:ゲバは威力・暴力を意味するドイツ語「ゲバルトGewalt」の略。組織の内部での暴力を伴う対立・抗争)で、殺し合うのも見飽きるほど見てきただろう。・・・かれらは、宗教はアヘンだというマルクスの言葉を繰り返しながら、自分たちが、日常の生活でマルクスを宗教にしてしまっていることに気がつかなかった。・・・自分たちがイデオロギー(選択肢e)を宗教にしていないかと、自分で自分を戒めていたら、同じ社会主義から出たセクト同士が、かつての部族社会まがいの、報復の連鎖に、はまり込まないですんだのではないかね』(184―185ページ)

科学も宗教となる場合もある

さらに一般には宗教とは一番遠い存在と考えられている科学(選択肢f)についても、宗教となることもあると述べられています。

『おれは・・・ヨーロッパで、科学者や天文学者が、教会のドグマ的な世界観を覆すような発見をしたことが、宗教の衰退の原因だと考えていた。・・・/それに19世紀には科学的発明が、人間の生活を一変させてしまった。世紀末に、ニーチェが《神は死んだ》と宗教にとどめをさすようなことをいう。進化論的な考えも常識化する。もう地上には、教会や宗教が口をはさむ余地などなくなったと思った。・・・だが、おれは神なしでというか、宗教なしでというか、それでやっていける人間は、現在でも意外とそんなに多くはないことに気がついた。それどころか、自分の人間としての価値を守るためには、妄想でもなんでも信じずにはいられない人間がたくさんいる』(178―179ページ)

『おれ(T氏)が科学も精神医療(選択肢g)も宗教だというと、《おまえ(なだ氏)は、なんでも宗教にしてしまう》というだろう。・・・だが、ほんとうに科学を神にしなければならない人間、医学を神にしなければならない人間がいるんだな。世の中にいるいるというばかりでなく、自分自身の中にも、そういう部分がある。それがなぜかを考えていかなければ、自分が脱宗教しただけではことがすまない。それでは無神論を宗教にしただけだ(179ページ)・・・/科学を信じる仲間も宗教か。それならなんでも宗教になるね。だが、単なる科学者と、科学を宗教にするものとはどう違うのかね/言葉づかいで分かるよ《われわれ科学者はこう考える》、という人間は、科学を宗教にしているね、《一人の科学者として自分はこう思う》、と意見を述べる人は、宗教にしていない。』(181ページ)

宗教とは

この本では、すでに触れたように、宗教は『集団の狂気』であると述べられていますが、さらに、『簡単にいえば、孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理だ。・・・それもなるべく簡単な原理。・・・宗教というと、すぐに、面倒な教義の方から考え始める。だが、教義を全部理解して、宗教に入るわけじゃない。大部分のカトリック(教徒)は、プロテスタントとカトリックの教義上の違いを分かって選択したわけではない。・・・一種の連帯感・・・仲間意識・・・そんな簡単なものなのだよ』(180―181ページ)とも定義されています。

宗教を信じるようになる原因としては、(1)自ら求めて入信する場合(23ページ)、(2)親が信者だったため、習慣から信者になった(つまり、気が付いたら信者になっていた)場合(16ページ)、(3)自分以外の家族が信者になったために入信する場合(19ページ)の三つがあり、宗教の本質を強く意識するのは、(1)の自ら求めて入信する場合で、それ以外の場合には、あまり強く意識されないようです。例えば、T氏がカトリックに入信すると、T氏の母上も、「息子はカトリック式の天国に行き、自分が仏教の浄土、つまりあの世に行く、そうなったら、二人は死んでから会えなくなる」と考えて、教義についての知識はほとんどないまま、カトリックに入信したというエピソードが紹介されています。

さらに、204ページでは、精神科医として、つぎのように分析しています。

『おれたちは心理学という武器を手に入れた。今から百年ほど前にね。・・・おかげで宗教が不安と絶望から逃れるための、一種の集団心理療法であるなどど主張することも可能となった』

イエスは天才的なグループ精神療法家

現代の精神医学に基づけば、「イエスは天才的なグループ精神療法の臨床家」(62ページ)と考えられるようです。

『イエスが人間だとしての話だが、・・・かれは病気の治療をしていた。・・・福音書には、かれが多数の病人を治した話が書かれている。・・・イエスもガンは治せなかっただろう。結核もな、だが・・・そのホンモノの病気の周りに、同じ数、あるいはそれ以上の数の、心因性の(
引用者追記:精神的・心理的原因による)病気、今でいえばヒステリーのような病気があった(1)。・・・イエスのような呪術医(引用者追記:超自然的存在や神秘的な力によって病気を治そうとする医者)はその部分を治していたのだ。・・・ヒステリーは今でも薬や手術では治せない。逆に暗示のような心理的影響が効果をあげる。・・・暗示で勝負なら、もしかしたら、呪術医の方が、おれたち(引用者追記:現代の精神科医)よりも上かもしれない。・・・病人の・・・半分が見事に治るとなれば、これは大したものだ。しかも暗示はグループでかけた方が効果は抜群だ。わたしも治った、という信者に囲まれたイエスの暗示は、劇的に効いたのだろう』

注1:ヒステリーは、神経症の一型。神経症とは、心理的な原因によって起こる精神の機能障害。器質的(身体器官の構造的・形態的性質が原因となった)病変はなく、人格の崩壊もない。また、病感(病気の自覚)が強い。ヒステリーは、劣等感・孤独・性的不満・対人関係などの心理的感情的葛藤(かっとう、トラブルのこと)が運動や知覚の障害などの身体症状に無意識的に転換される反応。歩行不能、四肢の麻痺(まひ)・痙攣(けいれん)・自律神経失調、皮膚感覚鈍麻・痛覚過敏・失声(発声機能に問題がないにもかかわらず、声が出ないこと)・嘔吐など多彩で、健忘(よく物忘れすること)・昏迷(こんめい:精神活動が停止し、じっとして動かない状態)などの精神症状を示すこともある。いずれも、他者の注意をひき、その支持を期待するという合目的性が本人の意識しない形で含まれているとみられる。日常会話で短気な人のことを形容して、「彼女はヒステリーを起こしたよ」とか「ヒステリックになっている」などと使う場合とは違い、れっきとした精神障害の名前です。蛇足になりますが、日本語のヒステリー(ドイツ語のHisterieから由来)に対応する英語のhysteriaや形容詞のhystericには、日本語の日常用語の方の意味はありませんので、うっかりそちらの意味で使わないように注意する必要があります。

ブッダ、ムハンマドも精神療法家

なだ氏は、さらにブッダ、ムハンマドも精神療法家であったと述べられています。つまり、三大宗教の始祖はともに精神療法家であったことになります(79―82ページ)。

『ブッダもムハンマドも、まちがいなく集団精神療法家だ。まず、ブッダについてだが、ブッダの時代(引用者追記:約2,500年前のインド)は、支配階級に、今の不安神経症(
注2)のような患者がかなりいたらしい。そもそもブッダ自身が神経症だった。その患者たち(引用者追記:のうち裕福なもの)は出家を許された。つまり家に属する限り負わなければならぬ様々な義務をまぬかれることができた。・・・(ブッダは)最初は苦行者に加わる。だが・・・苦行のためにからだを壊し、死にかける。そのとき少女からもらった乳粥(かゆ)で命をとりとめる。そこで菩提樹の陰の涼しいところでぼんやりと考えているうちに・・・修行で命を落とすことの愚かさを悟る。・・・そして有名な四諦八正道(したいはっしょうどう、注3)にまとめられることを悟る・・・人間が不安になる根源の理由は生きているからだ。だから生きている以上は不安であって当たり前。治ろう治ろうとじたばたしても無駄だ。それより現実を受け入れて背負っていけ。・・・やさしくいえばそういうことだよ。/それって、おれたちが森田療法(注4)で患者に納得させようとしていることじゃないか』

注2:不安神経症とは、不安・焦燥(しょうそう、いらだちあせること)を主症状とする神経症のこと。

注3:四諦八聖道とも書く。広辞苑によれば、「諦」は真理を意味しており、四諦とは、人生に関する次の四つの真理のこと。人生は苦であるという真理(苦諦)、苦の原因に関する真理(集諦〔じったい〕)、苦を滅した悟りに関する真理(滅諦)、悟りに至る修行方法に関する真理(道諦)。八正道とは、修行の基本となる八種の実践徳目。正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、つまり、それぞれ正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想をいう。

注4:森田療法は、精神科医森田正馬氏(1874-1938)によって創始された日本独自の精神療法で、神経症の治療に用いられている。自己の心身に生ずる自然現象を事実のまま受けとめ、死の恐怖に対して防衛的に消耗されていた心的エネルギー(生の欲望)を実生活での自己実現に向ける。


『・・・ムハンマドはどうなんだ。/かれも、グループ精神療法家だった。(引用者追記:イスラム教を信じる国民、国家、共同体を意味するイスラム)ウンマは、部族社会から解放されたというか、逃亡してきた人間たちを受け入れるための共同体だった。平等で、財産も平等に分け与えるような社会を考えていたらしい。原始キリスト教のコミュニティがお手本だったのだろう。/かれは呪術医ではなかった。だがこころの医者ではあった。多神教的な部族社会の人間全体をこころが病んでいるという見方をしていた。・・・そこで治療あるいは教育をする必要を感じた。/コーランを読むと、生活指導的だと思うよ。・・・妻にしていい人数だとか、そのためには妻たちを不平等に扱ってはならぬとか、ほんとうに生活指導的だね』

癖(くせ)、習慣、文化、宗教

『・・・ほかに、人間はどんな宗教的ノウハウをもっているんだね?/さまざまあるけど、最大なのは癖(くせ:選択肢h)というか習慣(選択肢i)だね。癖あるいは習慣は、不安に対する《くすり》だと考えるね/たとえば人間は新しいことを試みる。新しいことは、できるかもしれないし、できないかもしれない。だから不安になる。一度したことなら、一度はできたという保証がある。だから安心のためには繰り返そうとする。一度通った道は、そこを通れば、時間は最短とはいかなくても、ともかく目的地にはたどり着ける。だから、不安を避けたければ、二度目も同じ道を通る。多くの人間は、つねに新しい道の発見を求めて、探索しようとはしない。その反対さ。一度やったことを、二度やり、すぐ癖にする。自分には初めてでも、親のやってきたことをまねする。他人のすでにやってきたことをまねする。・・・個人が同じことをしていれば、癖とも習慣とも呼ばれるが、集団ではそれが文化(選択肢j)と呼ばれる』(205―206ページ)

『・・・癖なら個人のだれが持っていても不思議ではないだろう。宗教儀式や社会的習慣はそれが集団に広がったものだ。儀礼は無意味なものが多い。拍手を何回うつ。お辞儀を何回する。そういう細かいところまで決められている。しかし、・・・それをしなければ不幸が起こるわけではない。多くの人間は・・・ほかの誰かをまねているのさ。・・・ありがたそうにやっているがね。おれたちは昔から行われてきたことをひたすら繰り返して、儀式の中に不安を凍結してきたのだ』(206―207ページ)

『・・・官僚も法令と儀式で、不安を凍結化するのさ。・・・自分が決断すると、その責任は自分がとらねばならない。そのような場合に、すべてを先例に従って決めていく。官僚もそうだが、おれたちの社会全体が、そういう傾向を持っているのだよ。官僚でないものがやれば、官僚主義だ。だから、こうして不安を麻痺(まひ)させるために、おれたちの社会は、癖や習慣を儀式として増殖させ、結局は肥大した習慣に押しつぶされてしまうのさ』(207―208ページ)

狂気とは

精神医学では、狂気のことを精神病または精神疾患というようです。ただ、精神病であるという状態は、一般に考えられているより、定義が難しいようです。というのは、精神が健康であるという状態がはっきりしないからです。もしあなたが、自分の精神は限りなく健康であると確信しているとすれば、あなたは精神疾患を持っている可能性が非常に高いと思います。精神科医の故島崎敏樹氏が、「悩みなどなにもないと得意な人間の方が、実は悩むことのできる生きた心にまずしい、無思慮の欠陥者であることがよくある」とおっしゃっていたことについては、問題44(生き方)の答えでご紹介しました。

つまり、どんなに正常な人間でも、狂気と呼べる部分があると考えられます。そのため、精神的に健康であるというのは、自分の中にある狂気の部分を狂気であると認識できて、これとうまく付き合っていける状態かも知れません。逆に、本当の狂気とは、自分の中にある狂気を狂気であるとは認識できず、そのため周りの人とトラブルを起こす状態を指すのではないかと思います。なだ氏は、このような現実を下敷きにして、「狂気」という言葉を使っているのではないかと思います。

狂気かどうかの判断は社会的環境に左右される

精神病かどうかは、社会的環境にも左右されるようです。統合失調症(2002年以前には「精神分裂病」と呼ばれていた病気)患者の内面世界を描写した『デボラの世界』(ハナ・グリーン著、佐伯わかこ〔さえき・わかこ〕、笠原嘉〔かさはら・よみし〕訳、みすず書房刊)で、治療者として登場するフリード博士(訳者のあとがきによれば、アメリカの名高い精神分析医、フリーダ・フロム・ライヒマン(女性)がモデルになっているという見方が有力だそうです)は次のように描写されています。

『時として彼女は深い悲しみを感じながら、この病院の患者たちより遙かに狂っている、外の世界のことを考えるのだった。彼女はドイツの病院にいたころ知っていたティルダのことを思い出した。当時病院の外にはヒトラーがいたが、病院の内と外と、いったいどちらが正気の世界なのか、彼女にも判断できなかった』(13ページ)・・・『博士はふとティルダを思い出した。ニュルンブルグの病院を退院して、かぎ十字(ハーケンクロイツ:ナチスのシンボル)の支配する町へ出て行ったが、やがて戻ってきて、やすりのようにかたい作り笑いをして言った。《恒久平和(シャロムアレヘム)!先生、あいつらはわたしよかずっときじるし(引用者追記:狂気のこと)よ!》』(141ページ)

また、『健全な肉体に狂気は宿る』(内田樹(うちだ・たつる)神戸女学院大学文学部教授、春日武彦(かすが・たけひこ)都立墨東病院神経科部長共著、角川Oneテーマ21、角川書店刊)によれば、フランスと日本とでは、精神病の診断基準が違うようです(23―25ページ)。

春日:・・・解離というのは、それまでの脈絡とかつながりを全部断ち切ってしまうことで、「わかりません」とか「記憶にありません」とか言って、それでOKになっちゃう。・・・
内田:・・・あきらかに「逆切れ」は近年開発された戦略ですよね。ことば自体、数年くらい前に若者の語彙(ごい)に登録されたくらいなんじゃないかな。それがすでに一つのソリューションとして承認され、広範囲で活用されている。こういうふうに解離症状を呈することによってある種の問題状況を回避するというのは、日本人に特有の症例なんでしょうか?
春日:たぶんアメリカも似たような感じなんじゃないでしょうか。中国とかフランスだと、ちょっと違うと思いますが。だって、中国とフランスには、人格障害(引用者追記:人格の偏りのために、通常の対人関係、社会生活が円滑に行えず、社会的行動の障害を伴うことが多い)でもボーダーラインはないっていいますから。
内田:ボーダーラインがないって、どういうことですか?
春日:だって、みんながそうなんですから(笑い)「多少変わっているね」くらいにしか思われない。
内田:なるほど・・・。たしかにフランス女性なんて、日本で診断したら、ほとんど人格障害かもしれないないな。人格障害って「嫌なやつ」のことでしょう、要するに。
春日:おっしゃるとおり(笑い)。全員が嫌なやつばかりなら、誰も目立たないんですよ。

ここまでが引用です。私は逆に、顔に貼り付いたような笑顔や不自然なはしゃぎ方を特徴とし、髪を染めている人が多いことや、いつも新しいものを着ていなければ気が済まなかったりする日本人の多くは、欧米の基準から見れば、「演技性人格(パーソナリティ)障害」という人格障害に当たるのではないかと考えていますが、その話はそのうち材料が揃ったらご紹介します。

「宗教的常識」というようなものはありえない

また、『健全な肉体に狂気は宿る』には常識(選択肢k)についておもしろい話が載っていました(136―138ページ)。少し長くなりますが、重要な見方だと思いますので、引用させていただきます。

内田:
常識というものが、今、ほんとうに軽んじられている気がします。現代ほど常識が軽んじられている時代はなかったんじゃないでしょうか。ぼくは常識というのは非常にいいものだと思っているんです。何よりも、常識というのは原理にならないから。「これって常識でしょ」と言っても「江戸時代も常識だったの?」とか「アフリカでも常識なの?」と言われたら、グッと詰まるでしょう。つまり常識というものはもともと地域限定、期間限定のテンポラリーなものなんですね。
  常識には、そこそこの強制力はあるけど根拠はない。そこが常識のいいところだと思うんですよ。こういうものが社会的な道具としては一番使い勝手がいい。常識は限定された地域、限定された期間中でしか適用できない。その外側には通用しないけれど、ここでしばらくの間だけでは通用する。
  常識の持つこの不確かさ、バランスの悪さが、常識を社会的装置として非常に上質なものたらしめているんです。足元がグラグラ動いていて、そこでバランスをとるためにはものすごく高い運動能力が必要になるわけですから、まさに春日先生がおっしゃった「こだわり」とは対局をなすものですよね。ですから、常識的な人というのは、要するに非常にバランス感覚にすぐれた人なんです。
司会者:一般的には、常識にとらわれない人の方が、より自由でフットワークも軽い印象を受けるんですが。
内田:いいえ、それは反対。常識というのは本質的にきわめて不安定なものなんです。だから、「常識原理主義」とか「詩的常識」とか「宗教的常識」とか、そういうものは絶対ありえないでしょう?「熱狂的な常識人」なんて想像できないでしょう?常識は決して原理にならない、常識人は決してファナティックにならない。それが常識の手柄なんです。
  だから、常識に基づいて人を批判しても、徹底的に傷つけることはできないんです。「そんなこと、常識じゃないか」っていっても、「どこが?」って言われたらそれ以上は突っ込めない。この一句目は出るけど、二の句が継げないというあたりが、なんとも案配(あんばい)に〔ほどよく〕使い勝手がいいんですよ。
  規制力はあるけど攻撃力は小さい、権力的になれない。これは人間を動かすときに非常に有効な手段なんですね。言いたいことは言えるけど、相手の立場もちゃんと確保してある。常識的な人間というのは、だからすごくいいんですよ。人を徹底批判することがないし、罵倒(ばとう)したり愚弄(ぐろう)したりすることもない。だって、そんなの「常識的じゃない」から。「そんなに人を責めるなんて、非常識じゃないか」と言えば常識人は絶対黙りますから。
春日:たしかに、わたしが患者と話していても、結局のところ、常識なんだからうまくやりなよ、という話にいくわけですもんね。ただ、常識というのを「思考停止」だとか、「長いものに巻かれろ」的ないい加減な発想だというふうに取りたがりますから、そうじゃないんだということをいかに伝えるかという問題なんですね。
内田:あらゆるものが原理主義になる可能性がある中で、唯一常識だけが原理主義にならないということが常識の強みなんです。マルクス主義にしても、フェミニズムにしても、キリスト教にしても、間違えると原理主義になってしまう。でも常識だけはならない。「常識の名において断罪する」ということができないんですから。「何かの名において人を断罪する」というのは常識的に考えていかがなものか・・・というふうに考えちゃうのが常識人なんですから。

引用はここまでですが、なだ氏が「宗教」または「集団の狂気」と呼んだ内容は、この本では「原理主義」と呼ばれているのではないかという気がすると同時に、常識は狂気から最も遠い存在のような印象を受けました。

一生に一度狂ってみせる

水俣病の患者・家族の声を伝えている「苦海浄土」の著者である石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんは、『朝日新聞』2008年3月12日夕刊の「人生の贈りもの」という連載記事で、自らも水俣病患者で、患者救済の戦いの先頭に立った故・川本輝男さんのお話をされています。

川本さんは、原因企業チッソの株主総会で、壇上にいた当時の江頭豊社長の手をつかんで引き戻し、「どぎゃん言えば、わかっとじゃろか」「わからんじゃろか」と、さらに懐から位牌(いはい)を出して、「両親でございますぞ。どういう死に方じゃったと思うか」と泣きながら訴えたそうです。翌日、患者の皆さんは石牟礼さんに「ああきのうは狂うた、狂うた。思う存分、狂うた」とおっしゃったそうです。

この言葉について、石牟礼さんはつぎのように語られています。

一世一代の舞台に上がったぞっていう意味なんですね。正気ではいられない、むざんな日々ですから。/みんなの見ているところで、それこそ命がけで狂ってみせる。平常心のままでは自分を表現できない、それほどの事態なんでしょうね。私、つくづく、そう思いました。

危機的状況に追い込まれると、火事場の馬鹿力のように、人間は通常は考えられないような力を発揮することがあるようです。川本さんが自分で「狂うた」と表現した行動は、常識的とは言えませんが、実は自分、家族や仲間にとって、最も必要性が高くかつ合理性のある行動だったという見方も今となってみれば可能だと思います。こういう場合には、人間は「狂う」必要があるのかも知れません(2008年6月15日)。

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