ジャック・ブレルについてのトークショーが開催されました

2003年はブレルの没後25周年に当たります

問題31(音楽)でご紹介した、シャンソン歌手兼作詞・作曲家のジャック・ブレルが1978年10月9日に亡くなってから、今年(2003年)は25年目に当たるため、ブレルの生まれ故郷であるベルギーのブリュッセル市では、多数のイベントが企画されているようです。

例えば、「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rever)展は、2003年3月22日から2004年1月17日まで開催され(祝日を除く毎日9:30から18:30まで入場可能)、夢を追い求め続けた芸術家としてのブレルの生き方を、ブレル自身(の声)が紹介するという趣向になっているなっているそうです。会場の広さは3,000m2もあり、最後のコーナーは劇場になっていて、ブレルのオランピア劇場での最後のコンサートの映画も上映されているそうです。これらイベントについては、「ブレルとブリュッセル 2003」公式サイト(http://www.brel-2003.be )に詳しく書かれていますが、英・仏・独・蘭語のみです。日本語の説明は、ベルギー観光局のサイト(http://www.belgium-travel.jp/)の右下にある「Jaques Brel 2003」というボタンを押すと見ることができます。

2003年8月10日追記:6月末に「ブレル、夢見る権利」展を見てきました。その時に気づいたことなどを、最近気付いたことの『「夢見る権利」とベルギー』に載せました。]
2014年9月23日追記:この機会に1977年に録音された18曲のうち、12曲が収録されていた、Jacques Brel/Les Marquises(レ・マルキーズ、ブレルが最後の数年間を過ごしたマルケサス諸島のフランス語名),Barclay 810 537-2というCDに、残りの6曲のうち5曲が追加され、全部で17曲が収録されたバージョン(980-817-7)が発売されていたことがあとから分かりました。詳しくは、『ジャック・ブレルの没後25年目の2003年に発表された「カテドラル」は「辞世の歌」』をご参照ください。]

また、日本でもベルギー観光局がブレル関連で四つのイベントを企画されました(これについては、ベルギー観光局のサイトの中の http://www.belgium-travel.jp/event/bwc2003/brel.htm をご覧ください)。このうち、ブレルの誕生日である4月8日に開催された、トークショー『シャンソン歌手 ジャック・ブレルとベルギー』とシャンソン歌手 伊東はじめ氏のコンサート『私たちのシャンソンと歌手ブレル―ブレルを唄う』に参加させていただきました。

トークショー『シャンソン歌手 ジャック・ブレルとベルギー』は、音楽評論家の鎌田耕二氏と詩人の桑原真夫氏(このお名前は、ペンネームでご本名は「問題31(音楽)に対する中西さまのご意見」にご登場いただいたた中西省三氏です)のお二人のお話を中心にして、司会をされた俳優の児玉清氏(「パネルクイズアタック25」でもおなじみだと思います。下の写真もご覧ください)がいろいろな質問をされるというパネルディスカッション形式でした。このトークショウでお聞きしたことと、その後新たに気づいたことをあとからご紹介します。

シャンソン歌手 伊東はじめ氏のコンサート『私たちのシャンソンと歌手ブレル―ブレルを唄う』の方も、大いに楽しませていただきました。伊東はじめ氏は、ブレルの曲だけを歌ったコンサートを2回開かれたことがあり、98年には「ジャック・ブレルの世界」というCDも発表されました。東邦音楽大学声楽科のご出身だけに、歌唱力も本格的で、特に最後に唄われた「涙」(Voir un ami pleurer、涙を流す友を見ること、問題31の回答の最後に歌詞を載せてあります)は、涙なしでは聴けないものでした。

両方のイベントの後には、レセプションがあって、ベルギー料理とベルギー・ビールを楽しませていただきました。左がその時の写真ですが、右端の方が、トークショーの司会をされた児玉清氏、左のチェックの上着をお召しの方が、長年ベルギー観光局(日本事務所)の局長をされている宮下南緒子(みやした・なおこ)氏です。

児玉氏は、昔NHKテレビのロケがブリュッセルで行われたときに、当時ブリュッセルにいらした宮下氏にお世話になったというご縁で、今回の司会を引き受けられたそうです。

宮下氏は、長年の功績に対して、ベルギーからレオポルド二世勲章オフィシエ章を1990年に授与された方で、日本旅行作家協会会員でもあり、読売新聞に連載されていた記事をまとめたご著書、『晴れた日のベルギー』(丸善刊)もあります。
上の写真や左の写真の壁に展示されている水彩画は、画家の田中真砂子(たなか・まさこ)氏(社団法人 日本美術家連盟会員)が、ブレルの生家などのゆかりの場所を訪ねて描かれたものです。会場には30点ほどが展示されていました。どの絵もベルギーの雰囲気がよく出ていると思いました。

レセプション会場の一角には、私がお貸しした雑誌(パリ・マッチ誌の追悼号など)のコピー(左の写真)が展示されていました。

トークショーでお聴きしたお話の中で、興味深かった点を二つご報告します。そのあとに、その後私が気づいたことをご紹介させていただきます。

ブレルが自分のガンに気づいた時期

ブレルが自分のガンに気が付いた時期については、(1)1974年に告知を受けた時であるという中西さまの見方(「問題31(音楽)に対する中西さまのご意見」の中のご指摘)と、(2)1966年にコンサート活動の中止を宣言したときに、すでに自分のガンに気づいていたという私の見方(問題31の解答)がありました。今回のトークショーで、音楽評論家の鎌田耕二氏は、(3)病巣が発見されたのは74年だが、それ以前にすでに薄々気づいていたフシがあると指摘されました。中西様も、このご意見に同意されていました。

鎌田氏が、このようなお考えをお持ちになった理由については、トークショーのパンフレットの裏に掲載されていた、『夢追い詩人、ジャック・ブレル』(もともとは、『ジャック・ブレルは今日もパリで生きて歌っている』というミュージカルの公演プログラムに鎌田氏が掲載されたもの)という次の文章に書かれていますので、これをご紹介させていただきます。

68年発表の傑作<孤独への道>(引用者追記:原題、"J'arrive")は、明らかに死神との対話を綴った曲だ。「行くよ、いま行く/だが、なぜいま? なぜこのおれが?」 死神の招きに答えながら、40前の若さで死病にとりつかれた無念を彼はここにぶつけている。1970年前後のブレルの憑(つ)かれたような活動は、死期を悟った男の生き急ぎだったように思えてならない。

どうやら、私の説もそんなに大きな間違いではなかったようです。

夢を追い続けたブレル

掲載文のタイトルが『夢追い詩人、ジャック・ブレル』とされていることからも分かるように、鎌田氏は、ブレルは一生を掛けて、夢を追い続けたと考えられているようです。ブレルのそんな考え方が現れている歌詞を、この掲載文に鎌田氏はいくつか挙げられています。

(a)自伝的な作品 「ローザ(原題:Rosa)」・・・・「中庭に降る雨が・・・・(このままでは)ヴァスコ・ダ・ガマにはなれないと教えていた」・・・子供のころブレルはヴァスコ・ダ・ガマを崇拝していたようです。

(b)同じく「子供のころ(原題:Mon Enfance)」・・・・「いままで乗ったことのない汽車に/ぼくは乗ってみたかった」

(c)コンサート活動の中止を宣言してから、ニューヨークのブロードウェイで見たミュージカル『ラマンチャの男』に感激して、これを自分でフランス語に訳して主演しました。司会の児玉氏は、このフランス版のミュージカルのビデオを見て、この演技は迫真で、こんな演技を毎回続けていたらとても身が持たないのではないか、またこの演技を見て感動しない人はいないと思うとおっしゃっていました。その中の「見果てぬ夢(仏語原題:Reve impossible)」の歌詞・・・・「不可能を夢見る/届かぬ星に届こうとする/それが私の旅だ」

実際のブレルの人生でも、夢を追いかけるために、大きな決断が何度か下され、そのたびに「汽車を乗り換えること」になりました。

(α)家業である大きな板紙工場を継ぐのを拒否して、音楽の世界に飛び込むために、妻と3人の娘をブリュッセルに残して、1953年に24歳で独りでパリに旅立つ。

(β)1966年にコンサート活動の中止を宣言する。

(γ)1974年に南太平洋のマルケサス諸島に移住する。

(δ)死の1年前の1977年11月に、突然パリに現れて、最後のLPを製作した。

ブレルとジェームズ・ジョイスの共通点

トークショーでのお話をお聞きして、ブレルと20世紀最大の小説家の一人であるジェームズ・ジョイス(1882-1941)との間には、分野は違いますが、いくつかの共通点があることに気がつきました。ジェームズ・ジョイスはアイルランド出身で、『ユリシーズ』、『若き日の芸術家の肖像』、『ダブリン市民』などの小説で知られています。特に、「意識の流れ」(注1)という手法を生み出したことが革命的と考えられているようです。

(注1)「意識の流れ」について20世紀英米文学案内9 『ジョイス』 伊藤 整編(研究社刊)に載っていた、代表作である「ユリシーズ」についての解説から引用させていただきます・・・・本書の初めのところでもわかるように、ある人間の行動や会話の後にすぐ続いて、その人物の独白的な言葉が続く・・・・・・・・この書き方によって、普通の散文体で書かれる小説のように外形の描写ではなく、内面の描写を思い切って多くしたことが、この小説の特徴であり、これがこの小説を読みにくいものにし、また複雑なものにしている根本原因である(同書98ページ)。

ジャック・ブレル(1929-1978) ジェームズ・ジョイス(1882-1941)
活躍した分野 作詞家・作曲家・歌手 小説家、劇作家、詩人
生まれた国 ベルギー アイルランド
生まれた国の最大の宗教 カトリック カトリック
受けた教育 厳格なカトリック教育。歌を始めたのも、カトリック系の青年運動グループ「フランシュ・コルデ」の活動の中で歌ったことがきっかけとなったようです。 厳格なカトリック教育。
国を捨てて出発した時の年齢 24歳(1953年)に旅立って以来、ベルギーには一時的にしか戻らなかったようです。 20歳(1902年)・・・半年後に母危篤という連絡を受けて一時帰国して、1904年まで滞在したあと、22歳だった1904年の秋に旅立ってからは、所用で2度一時的に帰国した以外は、一生帰国することはなかったそうです。
自国の民族主義に対する嫌悪 ブレルは自らをフランドル地方(ベルギー北部のオランダ語圏)内のフランス語地域(つまりブリュッセル)出身者とみなしていました。しかし、フランドル民族主義(フランドル地方の独立を目指したり、オランダ語をベルギー全国の公用語としたり、フランドル地方の文化をベルギー全体に広めようとした)には強い反感を持っていたようです。例えば、最後のアルバム(LP/CD)に収められている「エフ(原題:Les F....、つまりフランドル人達のこと)という曲で、フランドル人を次のように徹底的にこき下ろしています。

「・・・あんた方は、アクロバット師に過ぎん/戦争の間はナチで、戦争のない時はカトリック/絶え間なくあんたらは銃とミサ典書を持ち替える/あんたらの眼差しはつかみ所がなく、ユーモアは貧弱だ/ゲント(引用者追記:フランドル地方の都市)には2カ国語を話す街路もあるのに/あんたらのことを思うとき、何も変わらねばと願うだけ/フランドルの紳士諸君、クソくらえ」
ジョイスの大学時代には、アイルランド文芸復興運動が盛んだったそうです。しかし、ジョイスはこの運動に対して終始傍観者の立場を貫いたそうです。これは、この運動の狭隘な(きょうあい=(見方が)狭い)愛国主義的雰囲気が知力の自由な働きを妨げると考えたためのようです((注1) でも引用させていただいた『ジョイス』の6―7ページ)。

アイルランドが、正式にイギリスから独立したのは1922年とだいぶ先のことでしたが、ジョイスの主著である『ユリシーズ』が描いた、1904年6月16日(注2)頃には、独立運動が国民的な盛り上がりをみせていたようです。主著である『ユリシーズ』、『若き日の芸術家の肖像』、『ダブリン市民』では、ともにアイルランドの独立運動、愛国主義、社会の停滞ぶり、庶民のアルコール漬けの生活などが重要なテーマとして、否定的に扱われているようです。     
作品を発表するために、母国との間で問題を抱えた ブレルは67年に発表した、「ラララ(La, la, la,)」という曲の中の「フランドル人ども、クソくらえ」という部分が、ベルギーの極右組織の反感を買い、その組織から、「望ましからざる人物(persona non glata)」とされて、国内ではもう公演させないと宣言されました。
アイルランドに対する批判的な内容を含む最初の短編小説集である『ダブリン市民』の出版の際には、印刷屋が印刷を拒否したために、2度も訴訟沙汰となり、原稿の完成から出版までに10年を要しました。
国を離れたにもかかわらず、故郷のことを描いた作品を多数発表している。 ブレルの最も美しい曲のいくつかは、ベルギーを描いた曲のようです。「平野の国(Le plat pays)」、「わが故郷マリーク(Marieke)」、「子供のころ(Mon enfance)」、「ブリュッセル(Bruxelles)」など。 ジョイスの場合、私の知る限り、主要作品の舞台はすべてアイルランドとなっているようです。
現在では、国民の誇りとなっている 現在では、ブリュッセル市が没後25年のイベントを企画するなど、国内でも高く評価されるようになったようです。 現在では、『ユリシーズ』が描いた一日、つまり6月16日は、主人公であるブルーム(Leopold Bloom)にちなんでブルームズデイ(Bloom's day、BLOOMSDAY)と名付けられて毎年ダブリンでイベントが開催されています。来2004年6月16日には、100周年で盛大なイベントが開催されるとみられます(注3)

(注2)この長編小説は、1904年6月16日のダブリン市内のことだけを描いています。
(注3)
「最近気付いたこと」「『ブルームズデイ 100』をのぞいてきました」を2005年2月27日に追加しました[2005年3月6日追記]。

下の写真は2001年のBloom's dayにかみさんが撮ってきてくれたものです。6月16日に、ダブリンのThe James Joyce Center前で催された、『ユリシーズ』の寸劇の様子です。かなり慎ましいイベントのようです。


下の写真も同じですが、左から2番目の中年男性がブルーム役の方のようです。

ジョイスは20世紀初めに、アイルランドの民族主義的考え方を、自らの小説の中で批判しましたが、20世紀後半には、ブレルが今度は歌と詩によって、フランドル地方について同様な批判を展開しました。どちらも、母国から強い抵抗を受けましたが、現在では両国でその正当性がある程度評価されるようになったようです。

日本では、民主主義とは相容れない極端な自民族中心主義(つまり愛国心)から国民を目覚めさせる文化的な動きはまだ起こっていないような気がします。その意味で、日本はアイルランドやベルギーよりも文化的に50年、あるいは100年遅れているのかもしれません。日本の問題点を、鋭い眼力で探り当て、正直に説明してくれたのは、問題38(政治・経済)でご紹介したカレル・ヴァン・ウォルフレン氏や問題64(社会)でご紹介したアレックス・カー氏など、主に外国人であった点も情けない話です(2003年5月5日)。



・最初のページに戻る