ボローニャのサラボルサ図書館

2019年5月に訪問したイタリア北部(エミリア・ロマーニャ州)のボローニャ市にあるサラボルサ図書館(Biblioteca Salaborsa)のアトリウムです。東京でイタリア語を教えていただいた、ボローニャご出身のマルゲリータさんが、イタリアを旅行することがあればボローニャも訪問するといいとアドバイスしてくださいましたので、訪問させていただきました。マルゲリータさんと母上のアンナさんとは、ボローニャの中心であるマッジョーレ広場に面したサラボルサ図書館の前で待ち合わせしました。そのあと図書館の内部を案内していただきましたが、誰でも自由に出入りできる大変美しい建物でした。マルゲリータさんがこの図書館を最初に案内してくださったところをみると、ボローニャ市民ご自慢の施設のようです。

この建物は元は証券取引所だったため、サラボルサ(SALABORSA、salaは部屋、ホール、borsaは証券取引所という意味)図書館と命名されたそうです。証券取引所が図書館になるというのは、設立が1088年と世界最古の大学であるボローニャ大学をかかえる学術都市らしい選択という感じがします。3階まで吹き抜けになったアトリウムは図書館とは思えない開放的な空間ですが、おそらく昔は実際に取引を行う「立会場」だったのではないかと思います。床はガラス張りになっていますが、これは床下にローマ時代の遺跡があるのが見られるようにするためだそうです。

2階の回廊部分は自習・研究スペースになっていました。この図書館はボローニャ市の中央図書館としての機能に加えて、学生数が10万人と、人口39万人の4分の1を超えるボローニャ大学の学生の拠点という役割も持っているそうですが、移民のためのイタリア語講座や各国語による利用案内、若者のためのコンピュータ講座、乳幼児、児童のための読み聞かせの機能とか、館内見学会なども催されているだけでなく、ホームレスも排除しないで、ホームレスに対する住居や医療などの公的サービスに関する助言、誘導の機能を持ち、行政窓口も館内に設置されているそうです。

図書館の前のマッジョーレ広場には、ボローニャのシンボルとなっている海神ネプチューンの像があります。ところで、産業面では、ボローニャとその近郊には、スポーツカーメーカーが集積していて、フェラーリの本社はボローニャの西40kmにあるマラネッロに、ランボルギーニの本社はボローニャの北西25kmにあるサンターガタ・ボロニェーゼにあり、マセラティの本社は現在ではボローニャの北西30kmのモデナにありますが、発祥の地はボローニャで、マセラティのロゴには、上のネプチューン像の右手に握られている「三つまた銛(もり)」(イタリア語ではtridènte、トリデンテ、英語ではtrident, トライデント)の先端部分が使われています。またスポーツタイプ・オートバイのメーカーであるドゥカティ(Ducati)はボローニャにあり、企業規模としてはマセラティよりもドゥカティの方が大きいと、マルゲリータさんの父上であるサウルさんが教えてくださいました。また、ボローニャは世界の包装機械の中心地となっていて、「パッケージング・バレー」という愛称で呼ばれていて、ティーバッグと薬品の充填包装システム機械では世界一のIMA社など、多数の包装機械メーカーがあります。

サラボルサ図書館のマッジョーレ広場側の壁には第2次世界大戦中にナチスドイツだけでなく、イタリアファシスト軍とも戦った愛国的ゲリラ兵士、パルチザン(これはフランス語のpartisanの発音で、イタリア語ではPartigiano、パルティジャーノといいます)の犠牲者の写真が掲示されています。全部で3枚のパネルになっていますが。上の写真はその中で一番大きなパネルです。井上ひさし氏は『ボローニャ紀行』に、「名前入りの何百人もの顔写真は2つの塔(引用者追記:下に出てきます)と並んでボローニャのシンボルであり、もっといえば、この町の精神そのものです」と書かれています(文春文庫版の26ページ)。

このパネルの右下の部分を拡大したのが上の写真ですが、ここには、「ボローニャのレジスタンス」と書かれていて、その下には、パルチザンの戦士は14,425人(内女性は2,212人)、戦死したパルチザンは2,059人、負傷したパルチザンは945人、逮捕された愛国者は6,543人、報復のために銃殺された愛国者は2,350人、ナチスの強制収容所で死亡した愛国者は825人いて、軍勲章金章受章者は22人、銀章受章者は40人と書かれています。3枚のパネルには戦死したパルチザン2,059人全員の写真(写真がない場合は、上の写真に示されているように、名前とパルチザンの星、本来は赤い星「Stella Rossa(ステラ・ロッサ)」とリボン)が表示されていました。このパネルはボローニャ市民がパルチザンの活動をいかに尊重してきたか、また、活動にいかに感謝しているかを示すものだと思います。日本にはファシストに対するレジスタンスの動きはほとんどなかったこともあって、こんな展示物はありませんね。

同じパネルの下左の部分には、(1)(1945年4月21日のボローニャ解放の1年9カ月前に当たる)1943年7月25日にナチスドイツ統治のシンボルを破壊する人々、(2)山岳部を移動中のパルチザンの部隊、(3)(ボローニャ南西郊外の)カザレッキオ・ディ・レでナチスドイツに虐殺されたパルチザンという説明書きが付いた写真が掲示されていました。

パルチザンは徹底したゲリラ戦法を採用して山中に隠れたり、一般市民の中に紛れ込んでいたため「ドイツ兵は男女を問わず、あらゆる市民が凶暴な殺人者の顔に見え、いつどこから撃たれるかもしれないという不安におびえていた・・・・(こともあって)ドイツ兵が1人殺されるたびに無差別に選び出した市民を10名、報復として銃殺した・・・その報復で2,351名(引用者追記:上のパネルでは2,350人になっていました)の市民が殺された(『ボローニャ紀行』、文庫版26ページ)。

パルチザンの闘いは実際にはどのようなものだったかについても、『ボローニャ紀行』の中に書かれていましたのでご紹介します。井上氏はパルチザンの生き残りで、著名な郷土史家であるカルロ・ヴェントゥーリさん(Sig. Carlo Venturi)から当時の話を聞いてこの本で紹介しています。ちょっと長くなりますが引用させていただきます(文庫版の162~164ページ)。

「・・・(最初は)銃を持たない抵抗運動を続けました。いわば伝令役ですね。そうして1年、私にとって運命的な1944年9月29日がやってきました。その日の真夜中、パンやハムを山中のレジスタンス基地に届けて、未明に近い時刻に山から下りました。若いパルチザンが3人 -- いずれも2つ、3つ年上でしたが -- 偵察を兼ねて送ってきてくれました。市内まであと25キロの人口6千の小さな町、マルツァボット(Marzabotto)の入り口の門にさしかかったとき、門の前の雑貨屋から5つくらいの坊やが飛び出してきて・・・・、門の方を指さして、こう叫んだのです」
「ドイツ人(テデスキ)がいる。親衛隊(オルガーニチ)だよ、来ちゃだめ・・・・」 
 坊やの声は途中で断ち切られました。門の上から飛んできた銃弾がかれの小さな体を射ち抜いていたのです。
 パルチザンのひとりがヴェントゥーリさんを道のそばの松林へ突き飛ばしました。
「基地へ行け。ナチスがマルツァボットでなにか企んでいるらしいと報告してくれ」
ヴェントゥーリさんは、松林につづく山中へひたすら走りつづけました。3人のパルチザンはその場にとどまって応戦したようで、基地へは二度と戻ってきませんでした。
「・・・その日を最後にわたしは家へは帰らないようになりました。あの坊やの声に誓って、ボローニャからナチスドイツとファッショ軍団を追い払うままで、わたしは戦わねばならない。そう心に決めたからです。その日からわたしもまた銃を持ったパルチザンの1兵士になりました」

1944年9月29日から10月5日までの、ナチスドイツ親衛隊少佐ヴァルター・レーダー(de:Walter Reder)に率いられた第16親衛隊(SS)装甲擲弾(てきだん)兵師団(引用者追記:歩兵部隊の一種)によるマルツァボットの一般住民の虐殺(マルツァボットの虐殺)では、第2次世界大戦中に親衛隊が行った一般住民虐殺としては最大の犠牲者が発生しました。

・・・(ナチスドイツからの解放後)連合国を迎えたマルツァボットの町長は次のような報告書を提出しています。
〈3日間で殺された者は1,830名。そのうち189名は12歳以下の子供達であり、315名は女性だった。なかでも酸鼻の極み(引用者追記:(さんびのきわみ)極めてむごたらしかったの)はモンテソーレ教会での虐殺であった。主任司祭は28家族の老人と女性と子ども195名(うち子ども50名)をお御堂に避難させたが、ファシストたちは全員を外へ引きずりだし、まず、笑いながら殴り始めた。抗議した主任司祭は祭壇の上で撃ち殺された。やがて全員は墓地へ連れられて行き、銃や手榴弾で殺された。〉

ヴェントゥーリさんは最後につぎのように語ったそうです「・・・あの坊やの姿と声は、私が息を引き取る瞬間まで、鮮明に見え、はっきりと聞こえているはず。そして、私の死後も、あの坊やの姿と声が何人かのボローニャの人の心に刻まれるように願いながら、わたしはレジスタンスのさまざまな局面を(郷土史家として)紙に刻み込んでいるのですよ」

自らが奇襲攻撃で戦端を開いた太平洋戦争(15年戦争)で、中国人だけでも1,000万人以上も虐殺した(問題74(人権)をご参照ください)ことを、歴史の闇に葬り去ろうとしている日本と比べると、戦争の経験が今でもしっかりと受け継がれているイタリアは、それだけ平和や民主主義を尊重しようとする心構えが定着しているのではないかと感じました。


ボローニャの周辺地域に人が定住するようになったのは紀元前9世紀頃で、その後紀元前7世紀にはエトルリア人、紀元前4世紀にはケルト人が住んでいましたが、紀元前196年にローマ人が支配するようになり、紀元前189年にローマ人によって建設された植民市、ボノニア(Bonnonia)がボローニャ市の始まりのようです。紀元前187年にエミリア街道(ミラノの南東約30kmのピアチェンツァとアドリア海沿岸のリミニを、北西から南東方向にほぼ直線で結ぶ延長270kmの街道)が建設されると、その中央付近にあったボローニャは交通の要衝となりました。エミリア街道は現在でも市の中心部を東西に横切っています(ただし、現在では市内では、サン・フェリーチェ通り、ウーゴ・バッシ通り、リッツォーリ通り、ストラーダ・マッジョーレと場所によって異なる名前で呼ばれています)。

また、現在ではボローニャは北部と南部、東部と西部を結ぶ7本の街道の交差点となっています。上の写真は、そのうちの2本が集まっているメルカンツィア広場で、正面の建物は商工会議所(メルカンツィア宮殿です)です。写真の左側の道を200mほど進むと、街の守護聖人である聖ペトロニオ(同市最大の教会であるサン・ペトロニオ大聖堂はこの聖人に捧げられています)の聖遺物が保存されているサント・ステファノ教会(元々は7つの教会から構成されていたため、「7つの教会、セッテ・キエーゼ」とも呼ばれています、一番古い建物は5世紀に建てられたそうです)。マルゲリータさんとアンナさんがセッテ・キエーゼに案内してくださいましたが、上の写真の中学生の団体が広場で休憩していて、たまたま引率していた先生がマルゲリータさんも教わったことがある先生だったというハプニングがありました。

この広場の周りの建物の1階はアーケードとなっていますが、これはポルティコと呼ばれているボローニャ市民ご自慢の施設で、中心部の建物のほとんどにはポルティコが設置されていて、その総延長は38kmにも達するそうです。


ボローニャは「2本の塔の街(città delle due Torri、チッタ・デレ・ドゥエ・トーリ)」とも呼ばれていることからも分かるように、2本の塔はボローニャを象徴する建物になっています。上の写真の手前の塔が高さ47mのガリセンダの塔で、3mも傾いていることもあって立ち入り禁止です。その先に見えるもう1本のアッシネッリの塔は高さ97mで屋上まで上ることができます。498段の階段を上ると街全体が見渡せます。

塔の屋上からの眺めですが、1つ上の写真の商工会議所(メルカンツィア宮殿、中央手前)とサント・ステファノ教会(「7つの教会、セッテ・キエーゼ」、左上に向かう道の途中の左側に黒く見える木立の左側)が見えます。

塔の上からはまた、約3.5km南西方向の丘(colle della Guardia、警備の丘)の上にある「聖ルカの聖母礼拝堂」(Basillica Santuarlo della Madonna di San Luca)が見えます。上の写真で礼拝堂の右側に回廊のようなものが写っていますが、これは市内からこの礼拝堂までをつないでいる全長7.5kmのポルティコの一部です。アンナさんのお話では、昔の参拝者はひざまずいて丘を登ったためポルティコが作られたそうです。

この礼拝堂にある「聖母のイコン」はボローニャ市民にとって最も重要な信仰の対象の1つとなっているようです。lonely planetという旅行案内書によれば、「聖母のイコン」は聖ルカの作とされ、聖母が非白人として描かれていて、12世紀に中東からボローニャにもたらされたものだそうです。また、「聖母のイコン」は毎年(2019年の場合、5月25日から6月2日までの8日間)、市の中心部にあるサン・ピエトロ司祭座大聖堂(ボローニャ市内で最も格の高いカトリック教会)に降りてきますが、訪問した5月27日から29日はちょうどこの期間に当たっていたため、サン・ピエトロ司祭座大聖堂は大変な賑わいでした。

上の写真はサン・ピエトロ司祭座大聖堂の内部ですが、中央に飾ってある「聖母のイコン」を見る市民が祭壇の上に行列を作っていました。訪問したときは、こんな事情があるとは知らずに、どうして夜間に教会が混んでいるのか不思議に思って迷い込んだ感じでした。そのため、皆さんが礼拝しているのが貴重なイコンだとは気づくこともなく、写真も写せませんでした。そこで上の写真を後から拡大してみると確かに中央の花に囲まれた部分に、それらしきものが写っていました(下の左側の写真)。ただ、お祭りのポスターに載っていた実物(下の右側の写真)と比較すると、この展示では聖母と右側の小さいキリストの顔の部分だけに穴が開けられて見られるようになっているようです。また、アンナさんは、「聖母のイコン」が降りてくる日には決まって雨が降るとおっしゃっていましたが、確かに訪問期間中断続的に雨が降っていました。

   

ボローニャの食べ物と言えば、スパゲッティ・ボロネーゼを思い浮かべる方が多いと思います。日本ではミートソース・スパゲッティのことをこう呼んでいるようですが、ボローニャの形容詞がボロニェーゼ(bolognése)なのでちょっと発音は違いますがボローニアのスパゲッティという意味になります。ところが、ボローニャのレストランやトラットリア(軽食堂)のメニューにはスパゲッティ・ボロネーゼという料理はないようです。日本のスパゲッティ・ボロネーゼに近い料理を食べたいと思った場合には、「タリアッテッレ・アル・ラグー」(Tagliatelle al ragù)という料理を注文するといいようです。

私はベジタリアンなので食べたいと思わなかったのですが、かみさんがどんなものか食べたいというのでボローニャ滞在最終日のディナーでこの料理を注文しました。上の写真にあるように、パスタはきしめんのような形をしています、この形のパスタのことをタリアッテッレというようです。ミートソースのことはイタリア語ではラグーと呼んでいるようです。かみさんは、トマトベースのラグーがたくさんのっていておいしかったと言っていました。

ボローニャ地方の料理は肉料理が多いようで、代表料理である「タリアッテッレ・アル・ラグー」のほかに、直径が20cmくらいと大型のソーセージである「モルタデッラ」(Mortadèlla)、薄く伸ばした正方形の生地にラビオリのように詰物をして、それを三角形に折り、両端を合わせて指輪状にしたパスタである「トルテッリーニ」(Tortellini)などがあります(2021年2月28日)。

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