問題20 (人権)の答え・・・回想記に慰安所の設置に関与していたことを明らかにしているのは a.中曽根康弘氏です。

吉見義明著『従軍慰安婦』(岩波新書)によれば、中曽根康弘氏は戦時中は主計将校(中尉)として転戦しましたが、回想記『二十三歳で三千人の総指揮官』に次のように記しているそうです(同書72ページ)。

三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。(松浦敬紀編『終りなき海軍』)

この文面から、兵士のために苦心して、いいことをしてやったという自負心は感じられますが、この施設のために多数の女性(この中には、中曽根氏が「原住民の女」と呼んだ人々も含まれていたでしょう)が性的奴隷状態におかれたことに対する反省は全く感じられません。78年ころに書かれた文章のようですが、戦後30年以上経っているにもかかわらず、発想が戦時中のままのように思えるのは私だけでしょうか。しかも、そういう人が首相までも務めたというのですから、(少なくとも78年ころまでは)日本は戦前とそう変わっていないと思わざるを得ません。

比較的最近でも、新生党(当時)の羽田内閣の永野茂門法務大臣は、南京大虐殺は「でっち上げだと思う」とのべて辞任しましたが、この発言の際に、慰安婦問題にもふれ、「慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない」(『朝日新聞』94年5月7日付)と述べました。中国、朝鮮、その他のアジア諸国出身の従軍慰安婦の場合には、強制的に連行されたり、看護婦にするなどと偽って送り出されて(『従軍慰安婦』111ページ)、自由を奪われ、日本軍によって性的奴隷状態(実質的な監禁状態で、1日に60人もの相手をしなければならなかった場合があったことが同書の141ページに載っています)に置かれた人が多かったことについて永野氏はどう考えているのでしょうか。

日本軍が慰安所を開設したのは、占領地での強姦事件の防止と性病の予防が目的とされていました。しかし、実際には士気の向上のためという面もあったようです。食料さえも十分には支給されない中で、健全な娯楽施設もほとんどなく、休暇も戦時には与えられなかった場合、士気が低下するのは当たり前といえます。そのため、兵士にとって「唯一の楽天地」として、慰安所が設置されたという面が強かったようです(『従軍慰安婦』53―54ページ)。その際、慰安婦、とりわけアジア諸国出身の慰安婦の人権は無視されることになりました。アジアの人々の人権を踏みにじっておいて、「大東亜共栄圏」を建設しようというのは、二枚舌だというのは、戦争をしている兵士にも明白だったのではないでしょうか。そんな兵士を戦わせる最も安易な方法が慰安所であったといえましょう。

保守系の政治家の多くは、従軍慰安婦問題や南京大虐殺から目を背けようとしているようです。それだけでなく行政、司法組織も、これら事件についての情報があまり国民に伝わらないように機能しているようです。南京大虐殺は日本軍の組織的行動であるという記述を教科書に載せようとした家永氏に対して、文部省は書き直しを命じ、これを不服として起こされた裁判で文部省の教科書検定が違法であったことが認められるまでに、32年もの年月を必要としました。

このように拒絶反応が強いのは、この二つの事実は、太平洋戦争というものが、「大東亜共栄圏」の建設を目的としたものではなく、単なる侵略戦争であったことを明確に物語っているためでしょう。保守系政治家の一部は、幼いころからたたき込まれたため、いまだに抜けきれないでいる愛国思想と、これらの事実があまりにかけ離れているため、直視できないのだと思います。しかし、日本がアジア諸国の人々から信頼されるようになるためには、戦争の時に日本軍は何をしたのかについて、被害者となったこれら国々の人々と共通認識を持つようになることが出発点ではないかと思います(98年6月18日)。

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