問題22 (写真)の答え・・・c. ロンドンの現像技師が処理に失敗したためであると説明しています

ロバート・キャパの自伝「ちょっとピンぼけ」に次のような記述があります。

・・・暗室の助手は・・・ネガを乾かす際、加熱のためにフィルムのエマルジョン(乳剤)を溶かして・・・すべてを台なしにしてしまった。106枚うつした私の写真の中で救われたのは、たった8枚きりだった。熱気でぼけた写真には、“キャパの手はふるえていた”と説明してあった。

このような説明はありますが、撮影時の状況の記述や、画面の感じからみて、手ぶれ、ピンボケが全くなかったとは言いきれないと思います。また、粒子の荒さからみて、フィルムの感度を上げるために、通常よりも長時間または高温で現像処理をした(増感現像)のではないかと推定されます。ただ、この処理は勘と経験がものを言う世界で、乾燥段階ではなく、この処理で失敗した可能性もあったのではないでしょうか。

銃弾が飛び交う中で、高い位置から敵に背を向けて、海岸から海の方向を撮影するのはまさに命がけだったと思います。そのため、この写真はたとえピンぼけでも、上陸作戦の状況を十分に伝える非常に貴重な歴史的記録となっていると思います。ちなみに、次に紹介する新聞記事によれば、ここに写っている兵士は、現在は米・アトランタ郊外の自宅で病気療養中のエドガード・リーガンさん(75歳、ということは、当時21歳)であるということが分かっているそうです。

余談になりますが、下に示したキャパのもう一つの代表作「崩れる兵士、(共和軍兵士の死、スペイン内乱、1936年、こちらは『太陽』89年11月号、「世界を創った100枚の写真」から転載させていただきます)」について、“「崩れる兵士」はヤラセ?”という記事が『朝日新聞』98年2月8日付に載っていましたので紹介します。

この記事によれば、この写真はキャパのやらせだという指摘が後を断たなかったそうです。

その根拠は、第一に、この写真の前に撮られた写真に写っている兵士たちの表情がのどかすぎて、演習のようにみえること、第二に、この写真より前に撮られた写真に、別の兵士が足を撃たれた様子で、横に倒れているところが写っているそうですが、その後にとられたこの写真にはその兵士が写っていないという点でした。

ところが、96年8月にスペイン人郷土史家マリオ・ブロトンス氏が、撮影された日に撮影されたとされる場所の近くで頭を撃たれて 戦死した民兵が一人だけいて、それがアルコイ地方出身のフェデリコ・ボレル・ガルシア青年(当時24歳)であることを確認したそうです。

正確な撮影地点についても、コルドバのスペイン内戦について本も書いている、郷土史研究家で、アルコイ市図書館長のリカルド・バニョ氏が、写真の背景となっている地形から確定したそうです。バニョ氏によれば、撮影されたのは、コルドバの北西にあるセロムリアーノというところだそうです。記者はバニョ氏の案内でその場所に立った時の印象として、カメラの向きが少し変われば、別の兵士の姿が写らない可能性は十分にあったと指摘しています。

ロバート・キャパは1913年にブダペストで生まれたユダヤ人で、ユダヤ人弾圧から逃れて、パリの小さな写真通信社に勤めました。1936年にスペイン内戦が始まると、パリで知り合った恋人の写真家ゲルダ・タロと共に戦地に入り、ここで撮った上の写真によって「戦争写真家」としての地位を確かなものにしたようです。

"Robert Capa Images of War" Paragraphic Booksによれば、恋人ゲルダは退却の混乱のなかで戦車にひかれて、死んだそうです。ゲルダとともに1年間撮影したスペイン内戦の記録は、"Death in the Making"(死の瞬間)という本にまとめられましたが、ゲルダはこの本を見ることはできませんでした。キャパはこの本をゲルダに捧げました。その本の冒頭には、下のような献辞のページがあり、そこには、「スペイン戦線で1年間を過ごし、スペインに永遠にとどまることになった、ゲルダ・タロにささげる、マドリッド、1937年12月、R.C.」と書かれています。



このページのコピーは"Robert Capa Images of War", Paragrahpic Booksから転載させていただきました(98年8月1日)。

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