問題55(生活の知恵)の答え・・・すべてが正解です。ただ 立花氏は、最後の選択肢 (e.)で触れた「捨てるためのテクニック10か条」は、「とっくに実践している。だからこの本の「捨てる技術」そのものに関しては、あまり異論がないというより、そこに書かれていることは、どうでもいい中身がないことばかりだから、真剣に論じるに値するとは思わない」という文脈の中で述べられています(374ページ)。逆に言うと、立花氏のように博学でなく、「捨てるためのテクニック」を知らない人にとっては、この部分は役に立つのではないかと思います。私も、この本はあまり評価していませんが、役に立つ部分もあると思います。

以下で各項目について、この本に述べられている立花氏の見解をご紹介します。

a.仕事に区切りがついたとたん、バサバサ資料を捨てられる仕事というのは、・・・アウトプットがその場かぎりのアブクのようなものとして消えていく運命にある仕事である・・・『「捨てる!」技術』の中で、捨てるべき対象として最も多く挙げられているのが「仕事の資料」で、「仕事の資料はたまりやすいからどんどん捨てるべき」とされ、わずか220ページほどの本の中に、「仕事の資料」への言及が10回もあるそうです(380ページ)。

ところが、「思いがけないときに、過去の資料が必要になることがよくあるというのは、当たり前のことなのだ。こんなことは、まともな職業人であれば、誰でも知っていることだろう。結局、職業人は、過去の仕事の全蓄積の上に立って、現在の仕事をこなしているものである。・・・まともな職業人なら誰だって、基本的に過去の仕事の資料は捨てないで取ってあるだろう(個人または組織で)し、また捨てないで当然だと私は思っている」そうです。

また、『「捨てる!」技術』では、「いつか必要になる」と思ってとっておいても、その「いつか」はこないにきまっているのだから捨ててしまえと主張されているそうですが、「多少とも知的職業についてる人には、「いつか」はしょっちゅうくるのである。持続的、継続的に知的な仕事をしている人には、それは必ずくるのである。・・・ひと仕事終わったらパッパッと仕分けして捨てるモノは捨ててしまうなどということはできるはずがないのである」。

さらに、「おそらくこの本の著者は、・・・そういう(つまり、仕事に継続性や持続性のない)世界で生きてきた人だから、こんな本を書けたのだろう」と推定しています。

b. 資料は外部空間においた自分の脳の一部である・・・立花氏は以前、資料を収める場所がなくなって、貸倉庫で預かってもらっていたこともあるそうですが、結局借金をしてでも自前の資料置き場をと考えるようになったそうです。そのように考えることになったのは次のような経験によるためだそうです。「当分必要になるはずがない資料を選んで預けたつもりだったのに、不思議に、預けたものの中にどうしても急に必要なものが出てくる。・・・資料は生きた自分の一部なのである。いってみれば、資料は外部空間においた自分の脳の一部、メモリーの一部なのである。生身の自分と全く離れたところに持っていってしまうと、メモリーも死に、それに応じて、自分の一部も死んでしまうのである」(383ページ)。

c. これだけは捨てられないという「聖域」は作らないことが勧められているが、生きるということは、自分の価値体系を持つということであり、自分の聖域を作るということである・・・『「捨てる!」技術』の「゛聖域゛を作らない」の項で、「思い出のモノ・記念のモノ」について辰巳氏は、「(思い出のモノ・記念のモノは)あなたが死ねばみんなゴミなのだ。たった今、交通事故であなたが死ねば、あれほど大事にしていたアルバムはうち捨てられる。本は一山いくらで古本屋に買い取られる。それなら、死ぬ前にもっとすっきりさせたほうが気持ちがよいではないか」と述べています。これに対して、立花氏は、「「死ねばゴミ」というのは、その通りだろう。しかし、死ぬ前はみんな生きているのである。・・・生きるということは、自分の価値体系を持つということであり、自分の聖域を作るということである。どれだけの聖域をどのように作り、それをどう守っていくかが、その人の生の最も本質的な部分をなしているはずである。・・・だれにとっても死んだらどうなるかより、いまどう生きているかのほうがはるかに大切なのである」と反論しています。

d. 著者の本音は、消費社会のモノの呪縛にとらわれた生活を続けたいということである・・・『「捨てる!」技術』の6ページには「モノの呪縛」から逃れる方法の一つとして、捨てることを提案しています。ところが、「買うこと=モノを増やすことをやめてしまうのはあまりにさみしい。入ってくるモノをなくせばモノはいずれ減り、すっきりしてくることはあきらかだ。でも、よほどストイック(引用者注:禁欲的)な人でもないかぎり、それで楽しく暮らせるとは思えない。少なくとも筆者は嫌だ」と述べています。

「なぜ、捨てなければならないか」というこの本の中心的テーマの説明の部分が「少なくとも、筆者は嫌だ」という程度の主観的な主張では、議論になりません。また、この文章で、入ってくるモノを「減らしたら・・・」ではなく、いきなり「なくせば・・・」と非現実的な仮定に飛躍している点は、非常に作為的です。

e. 「捨てるためのテクニック10か条」は中身のないことばかりだから、真剣に論じるに値しない・・・上で触れましたので省略します

現代社会では速読の技術の重要性がますます高まった

問題の解答は以上ですが、この本の序、「宇宙・人物・書物」にもかなり面白いことが書いてありましたので、こちらもご紹介します。
問題48(読書)でご紹介した、同じ著者の『「知」のソフトウエア』(講談社現代新書、第一刷は1984年)は、読んでいる本が読むに値しないと思ったときには、直ぐに捨てることが推奨されていましたが、2001年4月に出版されたこの本では、「速読」の技術を向上することによって、一応どんな本でも一通り目を通すことを勧めています。「サァーッ目を走らせることによって、・・・なんとなく本の流れがつかめるし、その本の扱っているテーマの主要なキーワードが何と何であるかなどは、自然にわかってくるのである。・・・だいたいの本の流れがわかったら、もう一度頭に戻る。――その段階で、その本がダメな本とわかったら・・・頭にもどらずにそれ以上その本を読むのをやめるのがよい」とされています(26―27ぺージ)。

また、21ページには「現代社会において、速読能力というのは、これからますます誰でも身につけなければならない能力だろう」と指摘されています。これはインターネットの誕生と関係しているようです。インターネットの誕生によって、「これからの時代、人間が生きるとは・・・生涯、情報の海にひたり、一個の情報体として、情報の新陳代謝をつづけながら情報的に生きる」ことを意味するそうです。この意味で、人間は「情報新陳代謝体」とみなすことができるようです。この場合、「豊な人間存在であるために最も必要な条件は、情報のスループット(入出力)をふやすことである。情報のインプットを高めて、体内(脳内)にできる限りの情報を貯めこむこと(旧来の情報人間の定義)ではない。入っては出ていく情報を片端から拾い上げて利用しながら、自己を情報体として高め、情報新陳代謝量、情報利用量の大きな高度情報人間になっていくことである」そうです(34―35ページ)。

最後に、この本について気付いたことを二つ指摘したいと思います。第一は、タイトルですが、自分で開発した「速読術」を紹介した本のタイトルに「驚異の」と付けるというのは、ちょっとやり過ぎのような気がしました。

第二に、378―379ページに「人間の頭というのは、結局、頭の全体験の歴史の上に築かれてゆくものなのである。物理学の用語を使って言えば、人間の頭は、非マルコフ過程の典型なのである。過去に起きたことは一回ごとにご破算にされ、過去が未来にかかわらない過程をマルコフ過程と言い、過去の履歴が未来にすべてかかわる過程を非マルコフ過程と言う」として、さらに、「単純な物理現象はすべてマルコフ過程と考えて良い」と書かれていますが、この最後の主張はとんでもない間違いです。

マルコフ過程は、水の中の花粉の動き(ランダム・ウォークと呼ばれています)のような、ごく限定的な(微視的な運動の)分野で適応が可能な理論で、野球のボールの動きなどの、ニュートン力学で説明が可能な巨視的現象の場合には、全く当てはまりません。ニュートン力学で説明できる現象の場合には、「因果律」(いんがりつ、ある時点までの動きからその後の動きが予想できること)が成立します(例えば、打者の打った球がどこに飛んで行くかは、打った時点でほぼ確実に決まります)。立花氏のような博識の方でも、ちょっと調べれば(というより、高校生程度の理科系的思考力があれば)わかるような誤りを見落とすというのは不思議です。やはり理科系分野と文科系分野の壁は厚いということでしょうか。

文科系の人が、自然科学研究の成果を聞きかじって、それを自分勝手に「曲解」して人間的現象に適用した、もっともらしい理論を吹聴するというのはよくある話です。自然現象を説明するための理論を、人間の行動にあてはめるような試みは、文科系の人には新鮮に映っても、元の理論を身につけている自然科学者にとっては、見当外れに感じられることが多いのではないかと思います(これは20年以上前に理論物理学を勉強して博士課程まで行って、その後落ちこぼれてしまったおじさんの実感です)。私はこのような試みのほとんどは、「まゆつば」とみています。立花氏も、自然科学の成果を「応用」するのでしたら、もっと慎重にされた方がいいのではないかと思います。そうでなければ単なる「立ち話」に終わってしまいます(なんちゃって)。
(2001年6月26日)。

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