『論文の書き方』(115ページ)によれば、「『八百屋の隣りは---』と書かざるを得ない時は、・・・問題への踏み込み方が足りないのである。・・・本当に深く踏み込めば、必ず対立物が現れてくる。・・・白いものと黒いもの、極大のものと極小のもの、高貴なものと低劣なもの、積極的なものと消極的なもの・・・こういう相互に際立った対立するものが現れてくる。それが現れないうちは、書くべきではないのである」と述べられています。ここで、深く踏み込むというのは、十分に考え抜き、よく調べ上げて、もう済んだと思う作業もあらためて繰り返してみることだそうです。
この段階に達すると、「今まで同じように見えていた多くのものの間に微妙な程度の差異が浮かび上がってくる。・・・例えば、AよりBは少し積極的で、BよりCはもう少し積極的で・・・というようなニュアンスの差異がいやでも見えてくる」そうです。さらに、「(引用者追記:隣りの隣りというような)空間的並存状態にあったものが、立派に(引用者追記:読んでいる内容が読み進むに従って発展していくという)時間的過程へ移され、そこで新しく立体化される」ことになるようです。
この文章自体を例に挙げてこのプロセスを示すと、「説得力のある文章の書き方は?」という問題を十分に踏み込んで考えた結果、「空間的併存状態」と「時間的過程」という対立概念が浮かび上がってきて、説得力のある文章は、「時間的過程」に基づいて書かれた文章であるという結論に達したようです。
解答の説明はこれでおしまいで、以下ではこの本に関係した話を二つご紹介します。
物理と経済の違い
私は学校では物理を勉強しましたが、社会人になってからは、多くのサラリーマン・ウーマン同様に経済や経営の問題に取り組むことになりました。物理の論文は、数学の証明問題の延長みたいなもので、大筋としては、「この現象はこの理論によって説明できる」とか「この理論が正しいとすると、これこれの現象が起こると予想される」という単純な構造になっていると思います。ところが、文科系の問題の場合は、物理の場合ほどはっきりした「理論」がなく、むしろ、「どんな理論が考えられるか」ということの方が話題の中心になっている場合が多いような気がします。
社会人になりたてのころの私の最大の戸惑いは、物理の勉強で身につけた手法を適用して文章を書くと、全く空虚な内容になってしまうということでした。物理現象の場合には、原子、原子核などの一定の性質を持った物、つまりモデル(模型)から物質が構成されていると考えていろいろな現象を説明することができます。ところが、経済や経営の問題の場合には、特定のモデルによってすべてを説明するのは不可能だと思います。これは、いろいろな経済予測機関が大規模な経済モデルを使って、経済成長率を予想しても、結果を見ると、そろって外れているという場合が、(私の実感としては)ほとんどであることからも分かると思います。
物理現象と経済現象の最大の差は、物理現象を支配しているのは物であるのに対して、経済現象を支配しているのは人間であるという点だと思います。例えば、景気が上向くと経営者が判断すれば、生産設備に投資する可能性が高くなり、このような投資が活発になれば、生産設備に関係する業界が潤うことになります。また、不景気になってリストラが活発になると、将来に備えて消費を控える消費者が増えて、ものが売れなくなってきます。人間の行動を予想するのは容易でないことが、経済予想が難しい最大の原因とも言えると思います。
人間に関係する分野を扱う場合には、その現象を支配している人の立場に立って、いろいろな可能性について考えてみることが重要だと思います。そのためには、特定のモデルによって何でも説明しようとする物理の手法は障害になり、いろいろな視点から物を見る必要があるということを気付かせてくれたのが、「材料の間に、ある種の対立関係が現れてくるまで、十分に深く踏み込む」必要があるというこの本の主張でした。
ちょっと脱線しますが、「ネットバブル」の全盛期には、「ビジネスモデル」という言葉が流行になりました。「ビジネスモデル」とは、インターネットなどのIT(情報技術)を生かしたビジネスの仕組みのことです。例えば、米国のパソコン・メーカーのデル社は、インターネットで顧客から指定された仕様(マイクロプロセッサの性能、メインメモリの容量、ディスクドライブの容量、プリンタなど)のパソコンを受注生産することで、パソコン販売世界一になったと言われています。この言葉のイメージとしては、一つの仕組みを作ると、その仕組み(モデル)が勝手にお金を稼いでくれるという感じがあります。ところが、「ネットバブル」が崩壊したため、多くの「ビジネスモデル」が利益を生まなくなってしまいました。この失敗の教訓は、ビジネスというのは人を相手にしているため、物理のように一つのモデルがいつも適用できるとは限らないということだと思います。
「が」には注意が必要
この本でもう一つ非常に参考になったのが、接続助詞の「が」について触れた、III章の『「が」を警戒しょう』でした。同書の53ページによれば、「が」には、次の三つの代表的な用法があるようです。ただし、このほかにも多くの用法があるようです(国語辞典で調べた「が」の用法をこのページの一番下の(付録)にご紹介しましたので、「文法」に興味をお持ちで、ひまな方はご覧ください)。
(1)「いい天気だが、風が冷たい」---「しかし」、「けれども」の意味・・・文法ではこのような接続の仕方を「逆接」(文章の前半から予想される事柄が、後半で実現されない関係にある)と言うようです(ちなみに、予想通りに実現される場合は「順接」と言うようです)。
(2)「いい匂いがするが、こんばんのごちそうは何だろう」---「それゆえ」、「それから」の意味・・・「それゆえ」は「順接」と考えられますが、「それから」は時間的前後関係を表すようです。
(3)「子供も子供だが、親も親だ」---「そして」の意味・・・「反対でもなく、因果関係もなく、・・・ただ二つの句をつなぐだけの、無色透明の使い方」
逆接でも順接でも使えるだけでなく、無色透明な接続の場合にも使えるため、清水先生は「『が』で結びつけることの出来ない二つの句を探し出すことの方が困難であろう」と53ページで指摘されています【引用者注:国文法では、「句」という言葉を、「節」[主語と述語を備えた一続きの語の連続が、文の一部分となったもの]に近い意味で使うこともあるようです。これに対して、英文法では、「節」(clause)
と「句」(phrase=2語以上の集合体で意味機能上の一単位をなすもの)の差ははっきりしているようです】。「が」がよく使われる、二つの「節」の間の関係がはっきりしない状態のことを、戦後の日本を代表する思想家である清水先生は「無規定的直接性」という学者らしい言葉で表現されて、次のように指摘されています(55ページ)。
「文章というのは、無規定的直接性を克服すること、モヤモヤの原始状態を抜け出ることである。・・・(しかしこれは)決して楽な仕事ではない。そもそも、それは単に言葉の問題ではないのである。・・・・「が」の代わりに「のに」や「ので」を使うとなると、・・・二つの事実の間の関係を十分に研究して認識していなければならない。研究や認識があって初めて、私たちは「が」から「のに」や「ので」へ進むことができる。文章とは認識である。行為である」
清水先生は次に新聞に「が」が多いことを詳しく分析され、さらに59ページに以下のようなことも述べられています。
「(新聞記事を)読んでいる時でも、スラスラと読めはするものの、・・・書かれている事実をしっかりと理解しようとするや否や、大変に努力が要る。・・・一句一句が逃げて行ってしまう。・・・こういう角度からみると、新聞記事でない文章、すなわち「が」がもっと少なくて、その代わり、「ので」や「それゆえに」、「のに」や「それにもかかわらず」というゴツゴツとした言葉を用いた文章の方が、後で記憶に残りもするし、読んでいる時も、一句一句が逃げない。滑らない。「が」でつないだ文章はツルツルと読者の心に入って来て、同時に、ツルツルと出て行ってしまうものらしい。しかし、これは当然の成り行きであって、「が」だけを使ったのでは、事件も問題も立体的な構造を持つことができないのである」
つまり、文章に立体的な構造を持たせる際には、意味があいまいな「が」は使わない方がいいようです。ただ、「が」の用例の中には、前後の関係から、逆接であることがはっきりしている場合もありますから、この場合には使っても問題がないと私は思っています(2001年10月22日)。
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(付録)「が」の用法を新明解国語辞典と広辞苑で調べると・・・
新明解国語辞典によると、「が」には、次の四つの品詞としての用法があります。
(a) 格助詞 (「鳥が鳴く」、「語学ができる」、「ばか者めが」のように、主語、目的語などを示す用法)
(b) 接続助詞 (「いい匂いがするが、こんばんのごちそうは何だろう」のように、複文(二つ以上の節から構成された文)の中で、最初の節(または最後の節以外の節)の末尾に付けられる用法)
(c) 終助詞 (「あしたも晴れてくれるといいが」のような用法)
(d) 接続詞 (「私は彼を信じていた、が(=しかし)、彼は私の期待を裏切った」と「が」が最後の節(または最初の節以外の節)の最初に来るような用法)
このうち、『論文の書き方』で問題としているのは、接続助詞の「が」のようです。接続助詞の「が」には次の四つの用法があるようです。
(1)前置きや補足的な説明を、あとの叙述に結びつけることを表す。「この間の話ですが、あれはその後どうなりましたか」、「いい匂いがするが、こんばんのごちそうは何だろう」・・・「それゆえ」、「それから」の意味・・・つまり「順接」の用法
(2)関係の有る二つの事柄を結びつけることを表す。「値段も安いが、品もよくない」、「子供も子供だが、親も親だ」・・・広辞苑では「・・・ところ」の意味で、共存的事実を示すとされています。・・・「そして」という程度の意味
(3)前件にかかわらず、それと対比的な後件が事実として存することを表す。「いい天気だが、風が冷たい」、「父親は秀才だったが、子供の方はだめだ」、「しかってみたが、ききめが無い」、「出かけようと思ったが、雨が降りだしたのでやめたよ」・・・広辞苑では「・・・けれども」の意味で、前後が食い違う事柄に移行したりする意味を表すとされています。・・・「しかし」、「けれども」の意味、つまり「逆接」の用法。
(4)前件のいかんにかかわらず、それと無関係に後件が行われることを表す。「たとえ親に反対されようが、僕はやるよ」、「行こうが行くまいが私の知ったことじゃないよう」、「注意されようがされまいが、していけない事はいけない」・・・広辞苑では、推量の助動詞を受けて二つの事柄を列挙し、そのいずれにも拘束されない意を表すとされています。「雨が降ろうが風が吹こうが行く」
広辞苑でも、接続助詞の「が」には四つの用法が挙げられていますが、上の(1)が抜けていて、代わりに、次の用法が加わっています。
(5) 下文を略して、不審(引用者注:はっきりしないこと、うたがわしいこと)や不安を表明したり、軽い感動を表したりする。「あしたも天気だとよいが」
ところが、この用法は、明解国語辞典では、(d)終助詞に含められていて
(1)人力ではいかんともしがたい事柄や事実と反対の事がらについて、万一の実現を願う気持ちを表す。「あしたも晴れてくれるといいが」、「もっと勉強してほしんだがな」
と両方で「あしたも天気だとよいが(晴れてくれるといいが)」という、ほとんど同じ例が挙げられています。ほとんど同じ「が」の用例が、辞書によって品詞まで変わるというのですから、私が中学・高校で文法が全く分からなかったのも無理はないと、自分を慰めている今日このごろです(注)。
(注:文章の最後に「このごろです」とか「昨今です」を持ってくるのは、「大紋切型」(つまり、手あかで汚れきった表現)で、この種の文章は「へどが出そうな文章で」あると、問題26にもご登場いただいた本田勝一氏が「日本語の作文技術」(朝日文庫)の「無神経な文章」(199ページ)のところでおっしゃっています。文章に敏感な方は絶対に使わない方がいい表現ですが(この「が」は逆接であることが明確なので使いました)、今回は冗談のつもりで使ってみました)。
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