学生時代の大変お世話になった先生に、その後も身の回りのことなどを書いた手紙を時々差し上げてきたのですが、ホームページを開設するようになってから、しばらくごぶさたしてしまいました。しばらくぶりにお手紙を差し上げたときに、このホームページをプリントしたものをお送りしたところ、先生の「これまでの研究生活の裏話」などについて長文のお手紙をいただきました。お許しを得て、その一部をご紹介させていただます(先生は匿名を希望され、「ある先輩」の話とでもするようにとのことですので、お名前は伏せさせていただきます)。
それは、ノーベル賞を受賞した物理学者の論文に誤りがあり、もっとスマートなやり方があることに先生が気付かれたときの話です。理科系の人間にとっての最大の課題は、どのようにしたら、ほかの人が考えていなかった重要なことを、他人よりも早く考えつくかです。先生のお手紙の内容からすると、新しい考えは意外なときに思いつくことがけっこうあるようです。
以下に先生の手紙の一部を引用させていただきます。
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特急電車が無停車駅を通過するとき、ガタンと揺れた。
ボンヤリ窓外に目をやっていた私の頭に、あるアイディアが浮かんだ。それまでまったく考えてもしなかったアイディアだったが、即座にその重要さが脳をいっぱいにした。
未亡人の六甲高級住宅の下宿の部屋に入ると私は、ひとつの論文を取り出した。ヤッパリ。ノーベル賞学者のその論文は私のアイディアからすると、間違いを犯していた。
それまでにも私は膨大な計算をシコシコと溜めていた。しかしそれらの大部分はもう用がない。ある種類の計算はそれらを合算すると厳密にゼロになることが、計算をしなくてもわかってしまった。意味のある結果に導く種類の計算をピックアップするのはとても簡単だ。ある種の指数が偶数か奇数かをみて、奇数ならゼロになる。小学生でもわかる。
ノーベル賞学者が気付いていないなら、まだほかに誰も気付いていないかも知れない。私の計算はこのアイディアにより大量に節約され、実験結果と整合する結果に達した。そのほかに、他の実験解析に対するやり直しをsuggestするオマケもついた。後に、suggestionが正しいことが実験家によって検証された。
それにしても、あの特急電車のガタンは何だったのか。ボンヤリしているときに突如として浮かんできたアイディアとどんな関わりがあったのか。
そのごコペンハーゲン大のある教授にこのガタンのことを話した。彼はそれに似たことをポアンカレが書いていたと教えてくれた。岩波文庫に訳されている四冊のひとつ『科学と方法』(吉田洋一訳、昭和50年7月25日、第25刷)p.58に「どこかへ散歩にでかけるために乗合馬車に乗った。その踏段に足を触れたその瞬間、それまでかかる考えのおこる準備となるようなことを何も考えていなかったのに、突然わたくしがフックス関数を定義するのに用いた変換は非ユークリッド幾何学の変換とまったく同じである、という考えがうかんで来た。…」
このポアンカレの話は有名なものらしく、ジャック・アダマールというフランスの高名な数学者が『数学における発見の心理』(伏見康治、尾崎辰之助、大塚益比古 訳、みすず書房、1994年2月10日第2刷)なる研究を啓発された、と書いている。
私はそのご、ノーベル賞学者とオックスフォードの彼の客員教授室で個人的に話をする機会に恵まれた。張り切ってスマートなやり方で説明して、却って理解されなくて、汗をかいた。簡潔に言えば「電子の言葉で記述しても、正孔(*注)の言葉で記述しても結果は同一でなければならない」というのがガタンの時に浮かんだアイディアだった。こう説明すると彼は即座に了解してくれた。
(*引用者注)「正孔」とは、半導体の結晶で、価電子が欠けている場所。正の電荷を持った粒子のように振る舞って、電気伝導の担い手になる(広辞苑)。
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以上が先生の手紙の引用です。
先生のように画期的な発見をしたことがないので、偉そうなことはいえませんが、膨大な下調べをしたあとで、ほかのことに気を取られた瞬間に、ひらめきが起こることがあるのではないでしょうか。
ただ、このひらめきというやつは、若いうちでなければ、なかなか起こらないようです。先生は、「私達は理論物理学や数学は40歳までが勝負と聞かされてきました。ノーベル賞受賞者で理論物理学の最年長はM.プランクで40歳の時の仕事というのがひとつの物差しかと思います」とお手紙に書かれていましたが、多くの重要な発見は、発見者が20代より前になされたもののようです(この辺の話は『老い』、シモーヌ・ド・ボーボワール著、朝吹三吉訳、人文書院、下巻、463ページ以下に詳しく書いてあります)。
逆にいうと、20代にめぼしい業績や、将来につながる業績を上げられなかった理科系の研究者の方は、早めに「つぶし」(アカデミックな研究をあきらめ、一般的な仕事を探すこと)を考えられた方がいいのかも知れません(実は私はその口です)。
(99年6月27日)。
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