震災8年後の神戸

6,433人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災が1995年1月17日午前5時46分に発生してから今年(2003年)1月で8年目になりました。壊滅的な打撃を受けた被災地がその後、順調に復興しているかどうかを確かめるために、1月12日と13日に神戸を訪問してきましたのでご報告します。大阪方面から被災地を訪問するのに便利なのは、阪神電車です。大阪、神戸間は、海側から、阪神電鉄(阪神本線)、JR(神戸線 = 東海道・山陽本線、大阪〜姫路間の営業キロ77.9kmを示す愛称)、阪急電鉄(阪急神戸線)の3路線を利用することが可能ですが、被災地は海側に集中しているため、阪神電車が便利です。

下の地図(『文庫版 神戸、都市図、兵庫県下全市』(昭文社刊)からコピーさせていただきました)の周りの(1)から(10)までの地名をクリックすると、現地の写真と説明を見ることができます(この地図に戻るためには、ブラウザーの「戻る」ボタンをご利用ください)。



(1) 阪神高速道路崩壊現場

阪神電車を芦屋駅で降りると、ホームから海側に阪神高速道路が見えます。芦屋駅は芦屋市と神戸市東灘区の境界近くにありますが、この川(芦屋川)沿いに高速道路に向かい、右折してしばらく行ったところが神戸市東灘区の崩壊現場です。

上の写真にも写っていますが、どこに行っても横断歩道橋があるのには、あきれました。ただ、写真を撮るのには、好都合で、下の写真も横断歩道橋から撮ったものです。ここが約500mにわたる崩壊現場の東端で、芦屋市と神戸市の市境とほぼ一致するようです。手前の丸い柱の部分が、崩壊しなかった部分とみられ、古い橋げたを補強して使っているようです。Y字型の橋げたの部分が崩壊したため完全に作り直したとみられる部分です。市境と崩壊部分の端が重なっていることは興味深い点です。市境が工区の境目と一致していて、神戸側を受け持った会社が手抜き工事をしたのに対して、芦屋側を受け持った会社が真面目に工事をしたことが、地震の被害に大きな差が出た原因となった可能性もあるのではないでしょうか。

下の写真は、『アサヒグラフ(緊急増刊)詳報!1995・1・17兵庫県南部地震、関西大震災』(1995年2月1日付)から引用させていただきました。左側に同じマンションが写っていることから、同じ場所であることが分かります。

上の写真では、外見上壊れた建造物は、高速道路だけのようです。また、上の写真で一番手前にある横断歩道(信号機には、「深江本町1丁目」と書いてあります)から撮ったのが下の写真です。上の写真の左から2番目のマンションが写っています。


下の写真は崩壊現場の西端の近くの理容院の建物です。

築後30年以上経っていそうな木造の建物がほぼ無傷で残り、日本の誇る耐震建築技術を使った高速道路(写真右手)が崩壊したのは、皮肉としかいいようがありません。

震災発生時に阪神高速神戸線(この道路)をマイクロバスで走行中に、橋脚が倒壊したため、車ごと落下して即死した、萬(よろず)英治さん(当時52歳)の母上、萬みち子さんは、「橋脚以外の建造物はほとんど倒壊しておらず震度5程度と推定される。(設計ミスや施工ミスなどの)欠陥がなければ倒壊はあり得ない」として、阪神高速度道路公団に約9,200万円損害賠償を請求する訴えを起こしました。

ところが、2003年1月28日の神戸地裁の判決では、「設計震度を上回る地震だったと推認される(*注)」などとして公団側の責任を認めずに、原告の請求を退けたそうです。萬さんは、控訴する方針だと報道されています。同じ記事によれば、もし控訴しなければ、萬さんは、公団から月10万円を10年間受け取れるだけとなるそうです。

*注:「推認」は大辞林(検索サイトgooで検索できます)によれば、「すでにわかっていることをもとに推測し、認定すること」だそうです。例えば、ある興信所のサイトによれば、浮気相手と一緒にラブホテルに入るところを写真に撮られた場合には、離婚裁判で「不貞行為」があったと「推認」されるそうです。

(2) 魚崎北町商店街


なんの変哲もない商店街の写真ですが、商店街の看板と下の『アサヒグラフ・臨時増刊』の写真から、この一角が震災後に、完全に焼失した地域であることがわかります。

この場所は、魚崎駅前の喫茶店で、上のアサヒグラフの写真をお見せして教えていただきました。有名な灘高校の近くです。

(3) 人と防災未来センター

問題64(社会)で触れた「犬と鬼」プロジェクトの神戸版が、「人と防災未来センター」のようです。まず、神戸市が再び大震災に見舞われたとしたら、真っ先に壊れて、内部や周りにいる人が大けがをしそうな、このガラス張りの建物には驚かされました。ロビーに、なぜガラスのビルなのかという説明のパンフレットまでが置いてありましたが、どうせ言い訳が並べられているでしょうから、読む気になりませんでした。要するに、費用のかかるビルの方が、建築会社、政治家、お役人には、おいしいということなんでしょう。また、パンフレットをみると、災害が起こったときの復興の拠点にしようという発想はもともとないようです。

展示内容はまずまずでしたが、地震発生により崩壊していくビルや高速道路の様子を大型映像と振動によって再現するという「1.17シアター」は、ディズニー・ランド内の小劇場のような感じですが、うるさいやら、がたがたゆれるやらで、最悪でした。テーマパークと勘違いしているとしか思えません。


(4) 神戸港震災メモリアルパーク(メリケンパーク内)

神戸市内で、いろいろな被災地を回りましたが、震災の被害をそのままの状態でみることはできるのは、現在ではここだけになったようです。この埠頭に隣接して、神戸港の当時の被害状況が展示されていて参考になりました。


(5) 神戸市立西病院

5階部分が崩壊し、37人が生き埋めになったものの、1人を残して、36人が救助された、市立西病院は立派に再建されていました。

下の写真は、やはりアサヒグラフの臨時増刊からコピーさせていただいた、当時の救出場面です。

(6) 菅原通商店街(長田区)

市立西病院から10分くらいのところに、当時周りが焼け野原になった、菅原通商店街があります。

当時はアーケードがありましたが、現在ではアーケードが取り払われて、普通の商店街になっていました。また左側の角の土地のように、空き地が多数残っていました。震災直後のこの場所の写真を、『神戸市街地 定点撮影、1995-2001、復活への奇跡』(関美比古[せき よしひこ]他、毎日新聞社刊)からコピーさせていただきます。ただ、2枚の写真はちょっと見ただけでは、同じ場所には見えません。

上の二枚の写真が同じ場所であることは、この本で、同じ場所を撮ったものであるとされている下の2枚の写真から分かります。


通りの途中から、撮影地点の方を撮った写真も、この本に載っていました。

私の写真の撮影地点は、突き当たりに見える焼け残った二つの店舗のうち、左側の理容院の前の路上でした。

(7) 鷹取商店街(長田区海運町3丁目)

下にコピーした、『神戸市街地 定点撮影』の表紙に載っている場所にも行ってみました。この辺りでも、右手の建物の隙間をごらんいただければわかるように、空き地が多いため、はるか先まで見通せることがあります。道路の突き当たりの高いビルは、約600m先のJR新長田駅前の高層マンションです。



(8) JR 新長田駅周辺

JR新長田駅前には、高層ビルと空き地が入り交じった、独特の風景が広がっています。

駅前では、いくつもの再開発ビルが建設中でしたが、再開発地域に店舗を持っていた商店主は、工事中の収入減を補うために、工事現場のフェンスの前で、仮の店を開くことが多いようです。

ただ、新しいビルがどんどん建っても、空き地の分だけ住民は減ったため、商売は大変なようです。『神戸市街地 定点撮影』の45ページには、次のような商店主の声が載っていました。

「市のやっていることはワヤ(めちゃくちゃ)や。開発せんでもええとこを開発して、ええ町をつぶしとる。再開発で20階やら30階建ての高層ビルを作って、得するのは大地主だけやろ。金儲け主義で、そんなもの作らんでも、昔のような2階建ての商店街にしとったら建物も早く出来て、もともと住んどった住民や商売人がとっくに戻れとったはずや」

どうも、長田では、建物よりも、空き地の方が、住民の現状を雄弁に物語っているようです。

(9) 生田神社

三宮駅近くの生田神社は、完全に再建されたようです。やはり、アサヒグラフ・増刊号に載っていた震災直後の写真と比べてみてください。



(10) 阪急三宮駅周辺


やはりアサヒグラフ・増刊号に載っていた阪急三宮駅の立派な建物は、パチンコ屋のような安っぽい3階建てくらいの建物になってしまいました。上の写真の右手の小さい盛り上がりが、下の写真の中央の一番下に写っていることから、同じ場所であることが分かります。



(2003年1月31日)

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