タラの丘とニューグレンジ

2004年6月に訪問した、アイルランドの『タラの丘』からの眺めです。タラの丘(Hill of Tara)は、ケルト民族(鉄器時代の戦闘的な部族で、東ヨーロッパに起源を持ち、紀元前800年から同300年にかけてヨーロッパの広い地域を支配した)の言葉であるゲール語では、Temhairと呼ばれ、一説によれば、これは、すばらしい見晴らしの丘という意味だそうです。首都ダブリンの北西約40kmにありますが、『lonely planet, Ireland』という旅行案内書によれば、タラの丘は、アイルランドの伝説や民話では1000年以上にわたって特別な場所とされてきたそうです。神話によれば、この場所は神の住む場所であると同時に、別の世界への入り口でもあるとされたそうです。この丘にある通路古墳(passage grave、墓室まで通路がある古墳)の一つは新石器時代の紀元前2500年のものであり、青銅器時代を通して、地位の高い人々がこの場所に葬られたのは確かだったそうです。中央の石碑は、運命の石(the stone of destiny)と呼ばれているそうです。

さらに、紀元3世紀頃には、アイルランドで最も有力な支配者の本拠地となり、紀元5世紀には、アイルランドの守護聖人で、アイルランドにキリスト教を伝えたとされている、セント・パトリック (St. Patrick) が、アイルランドを象徴する花となっている、シャムロック(Shamrock、コメツブツメクサ)の花と、その3枚の葉を使って、キリスト教の三位一体説(どこかの国の政府のように、不人気な政策を無理強いするために、人気の出そうな全く別の政策と、ひとまとめのものであると勝手に決めつけることを指すのではなく、本来は、創造主とキリストと精霊が唯一の神の三つの現れ方であるという説)を Laoghaire王に、この場所で説明したとされています。その後、11世紀まではこの地が支配者の本拠地であり続けたようですが、キリスト教が広まるのに伴って、ケルト民族の宗教の聖地であった、タラの丘は徐々に荒廃していったそうです。

タラの丘が再び注目されるようになったのは、英国からの独立運動の際で、その運動のリーダーであった、オコンネル(Daniel O'Connell)が1843年8月に、ここで演説した際には、75万人聴衆が集まりました。ただ、現在では、わずかの古墳が残されているだけで、塚や堀が崩れて、ゆるやかな起伏のある独特の地形が残されているだけの場所がほとんどでした。

下の写真の中央右手に古墳が見えます。右手の森の中には、キリスト教の教会があって、ビジターセンターになっていて、映画なども上映されているようでしたが、ツアーを主催している Mary Gibbons さんによれば、見るほどのものでもないというので、省略しました。

Mary Gibbons Tours (Tel: 01 283 9973, http://www.newgrangetours.com/ )というツアーは、ダブリンからの日帰りで、タラの丘とニューグレンジ(Newgrange)を回ってくるというものでした。Maryさんは、ご兄弟のお一人が考古学者でいらっしゃるとのことですが、ご本人もお話の内容から推定すると、かつて考古学者だった感じで、非常に博識の方で、ツアーの間中話し続けられていたのには感心しました。

バスで一つ前の列に座っていたアメリカ人らしい二人のご婦人は、お二人とも、Maryさんのおっしゃっていることを、ずっとメモされていました。このお二人の方はどうも研究者の方のようでした。というのは、Maryさんが有名な数理物理学者のハミルトン(Hamilton、1805-1865)が近くのTrimという町に住んでいた叔父の家で3歳から学生時代までを過ごしたということの説明のあとに、宇宙物理学者のホーキング氏が奥さんの虐待を受けて、入院中だという話をされたときに、そのご婦人のうちの一人の方が、「3週間前までケンブリッジにいましたが、あちらで聞いた話ではもう退院したそうです」とおっしゃっていたためです。

また、Maryさんが、このバスツアーの参加者に、翌日(6月16日)のブルームズ・デイBloomsday100周年記念祭(これについてはあとから書くつもりです)のためにダブリンを訪問された方はどのくらいいらっしゃいますかと聞かれたときに、私を含めて、乗客の半分くらいの方が手を挙げられたのには驚きました。そのためもあって、ダブリン市内まで戻ってきて、『ユリシーズ』に登場する、バック・マリガンのモデルとなった、ゴガティ(Oliver St. John Gogarty、外科医、詩人、劇作家、小説家、随筆家、上院議員)の生まれた家や、ジョイスの妻となったノラが、働いていたことがある、フィンズ・ホテル(Finn's Hotel)の前などを通ったときには、それぞれ詳しく説明してくださいました。

下の写真は、このツアーのもう一つの訪問地である、ニューグレンジです。ニューグレンジは、1993年に世界重要文化遺産地域に指定されたBru Na Boinne(ボインの集落)にある古墳群中で、最も有名な遺跡です。lonely planet には、ニューグレンジは「ヨーロッパで最も注目すべき前史時代の遺跡の一つ」と形容されています。この遺跡は紀元前3200年頃に建設されたもので、エジプトのピラミッドよりも6世紀も古いことになります。それだけ古いにもかかわらず、ピラミッドに比べて、あまり知られていないのは、この古墳がそんなに古いことが分かったのが、1970年代初め頃であった(炭素(C-14)年代測定法という比較的新しい技術によって明らかになった)ことも関係していると、Maryさんがおっしゃっていました。古墳を構成する塚は、高さ11メートル、直径79―85メートル、面積約4000平方メートルと巨大です。ニューグレンジという名前の起源については二つの説があり、一つは一時穀物倉庫として使われていたことから、"new granary(新しい穀倉)"が起源である説というです。もう一つの説は、アイルランドの伝説上の戦士団でアイルランドの守り手とされているフェニアン団(Fianna, the Fenians)のリーダーの妻で、リーダーが最も信頼していた部下Diarmuidと、恋に落ちてしまったGrainne(グレイン)が、Diarmuidが大けがをして運び込まれた洞窟に、Diarmuidの死後も長くとどまったという伝説に基づく、"Cave of Grainne"が起源であるという説です。

ボインの集落の古墳群(ただし、現在公開されているのは、Knowth〔ナウス〕とニューグレンジの二つだけです)を訪問するためには、近くのビジターセンターから見学用のシャトルバスを利用しなければならないシステムになっています。このツアーでも、ビジターセンターで、入場券とシャトルバスの時間が書かれたステッカーを受け取ることになっていました(この料金もツアー料金に含まれていました)。現地に着くと15人くらいのグループに分かれ、それぞれに1人のガイド(墓室の入り口のところで撮った下の写真の野球帽の女性)が付きました。15人くらいのグループに分かれるのは、一度に墓室に入れる限度がこの程度の人数だからです。

墓室の入口を写したのが下の写真です。入り口の前には、渦巻き模様が彫刻された、大きな細長い石が置いてあります。渦巻き模様は、ケルトを代表する模様となっているようです。この塚の周りにはこの石を含めて97の大きな石が並んでいます。ただし、白い石垣のような部分は、1962年と1975年の大規模な復元工事の際に再構築されたものだそうです。入り口の上に窓のようなものの一部が見えますが、冬至の前後数日間は夜明け直後の数分間、この窓から入った朝日が19m先の墓室の奥まで差し込むそうです。この光景を目撃することは、アイルランドへの訪問で、最も印象的であるだけでなく、神秘的な経験でさえあることに、疑問の余地はほとんどないと、lonely planet には書かれていました。ただ、墓室に入れる人数が少ないため、この光景を目撃したくても、少なくとも15年先までは予約が入っているそうです。ただ、Maryさんによれば、最近、抽選によって入れる人を決定することになったとおっしゃっていました(15年先まですでに入っている予約はどうなるのかについては、お聞きしませんでした)。実は、墓室に入ることができた見学者は、人工的な照明によって、同じ光景を経験できるようになっています。これは人工的なショーに過ぎませんが、古代の闇に差し込むおぼろげな光が非常に印象的でした。

ボインの集落はボイン川沿いにあります。下は、ビジターセンターから、シャトルバスの乗り場まで歩くときに、渡ったボイン川にかかる橋から撮った写真です。この川のほとりで、1690年7月1日(現在の暦では11日)に戦われたのが、「ボイン川の戦い」です。1688年のイギリスの名誉革命によって、イギリスからフランスに逃れた、カトリック教徒のジェームス2世は、ルイ14世の率いるフランス軍の支援を受けて、アイルランドに攻め込みました。名誉革命で、1689年にイギリスの王位に就いたプロテスタントのウィリアム3世の率いるイギリス軍(3万6,000人)と、ジェームス2世が率いる連合軍(2万5,000人)が戦ったのが、「ボイン川の戦い」です。この戦いで、プロテスタント側が勝利を収めたため、イギリスでは、プロテスタントが支配権を握り、アイルランドのカトリックが厳しい弾圧を受けるようになり、ヨーロッパでのフランスの支配力が大きく後退することになったそうです。
 
(2004年10月10日)

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