ケッペル・ベイの高層住宅群

シンガポールの地下鉄(MRT, Mass Rapid Transit)北東線(North East Line)の南西側の終点であるハーバー・フロントはシンガポールを代表するリゾートエリアであるセントーサ島への入り口となっていますが、駅の西側300m位から西側には、造船所跡地を再開発した高級集合住宅街が広がっています。上の写真の建物はリフレクションズ・アット・ケッペル・ベイ(Reflections at Keppel Bay)という高層住宅で24~41階建ての6本の超高層ビルが中心となり、その周りに6-8階のヴィラが11棟建っています。ネットで調べると家賃は最低でも月額46万円とのことです。この住宅群はポーランド系アメリカ人で、ニューヨークの世界貿易センター跡地に建てられたフリーダム・タワーも設計したダニエル・リベスキンド(Daniel Libeskind)が設計して、数々の建築関係の賞を受けたようです。完成は2013年で総戸数は1,129戸ですが、建物が曲がっていて、ばらばらな方向を向いているのが印象的でした。

上の写真はリフレクションズ・アット・ケッペル・ベイの駅側(東側)に隣接しているカリビアン@ケッペル ベイ (Caribbean@Keppel Bay、@はat/アットと発音するようです) です。こちらの完成は2004年と14年前ですが、昔の造船所のドックをうまく生かした、なかなか趣のある建物群でした。こちらも家賃は最低でも月額44万円で、総戸数は969戸と巨大です。

高層住宅群の海岸側は遊歩道になっていて、ラブラドール・パークという公園まで歩くことができます。上の写真はラブラドール・パーク近くの遊歩道から振り返って東側を写したものですが、正面の塔の辺りから右側がセントーサ島です。

ラブラドール・パークには、かつて英国軍の砲台(Labrador Battery)が設けられていて、日本軍が南側から攻撃してきた場合に備えていたようですが、現在でも一部で、砲身のレプリカと砲兵の像によってその様子が再現されています。

ラブラドール・パークから内陸側に向かい、地下鉄のラブラドール・パーク(Labrador Park)駅から次のパジル・パンジャン(Pasir Panjang)駅まで地下鉄を利用するか歩き、さらに内陸側に進むと、ケント・リッジ・パークという大きな公園手前に、リフレクションズ・アット・ブキ・チャンッデゥ(Reflections at Bukit Chandu, 31 K Pepys Road、一番上の建物の名前に出てくるリフレクションズは反射という意味のようですが、ここでは熟考、沈思という意味のようです)という展示館があります。この展示館は第2次世界大戦の初めにこの地域を守っていたマレー人(マレーシア人)から構成されていたマレー連隊の日本軍に対する戦いを中心にした展示館です。

第二次世界大戦の日本軍のこの地域への進軍の状況を問題97(政治)答えに書きましたので、コピーさせていただきます。

「海軍による真珠湾攻撃の1時間19分前の午前2時(日本時間)には、陸軍が英領マレー半島のコタバル(マレーシアの太平洋岸のタイ国境近く)に上陸を開始しました。同時にタイのシンゴラ、バッターニにも上陸した山下奉文(ともゆき)中将が率いる日本陸軍は戦略上重要なマレー半島南端のシンガポールを目指して目覚ましい勢いで(自転車などを使って)進撃を続け、翌1942年2月7日にはシンガポール領の北東端に当たるブラウ・ウビン島に上陸し、2月15日にはシンガポールを完全に制圧しました。シンガポールが比較的簡単に制圧できた一因は、シンガポールの防衛戦略では攻撃は海側(南側)から行われることが前提になっていたため、マレー半島側からの攻撃には弱かったという面もあったようです」

この展示館には、日本軍がマレー半島を急速に南下する際に使った自転車(この部隊はそのため「銀輪部隊」と呼ばれていました)が展示されていました。またスライドショーを見ることができ、その日本語のパンフレットも用意されています。そのパンフレットによれば、日本軍がこの地域を攻撃したのは1942年2月13日の深夜からと、シンガポールが陥落した15日の直前でした。また、日本軍は攻撃の1年半前に当たる1940年9月にシンガポールの海岸線を調査して、調査に当たった谷川大佐は「シンガポールを海から攻撃するのは不可能だ、シンガポールの北、ジョホール海峡から攻撃するしかない」と、当時シンガポール日本領事館の報道官だった篠崎マモル氏に語ったそうです。陸路からの攻撃がかなり以前から準備されていたことが分かります。

近くのアレクサンドラ病院は日本軍が200人以上の軍医、看護兵、患者などを虐殺した現場

また、リフレクションズ・アット・ブキ・チャンッデゥの北西約1kmの場所には当時、英国軍のアレクサンドラ病院(Alexandra Military Hospital)があり(wikipediaによれば、現在では500床規模で国営のアレクサンドラ病院となっていますが、一部に当時の建物が残されているそうです)この病院では1942年2月14日と15日の日本軍の攻撃で、軍医、看護兵、負傷者など、200人以上が殺害されました。その攻撃のことが "The Battle for Singapore, The True Story of the Greatest Catastrophe of World War II" by Peter Thompson, Piatkus Books, に描かれていましたので下に翻訳しました(476-478,482ページ)。


その朝(1942年2月14日)の日本軍の主要な攻撃目標は南部地域の西側の前線だった。この地域は英国の連隊とマレーシアの連隊が特に善戦していた。しかし多勢に無勢だった英国軍は押し戻され、英国軍アレクサンドラ病院が日本軍に占領されてしまった。午後1時に病院職員が2階のベランダから緑の軍服をまとって鉄兜をかぶった日本軍の一団がAyer Rajah Roadを通って近づいてくるのを見た。病院は550人の患者を収容可能な設備を備えていたが、野営用の簡易ベッドを使ってさらに350人の患者を収容していたため、合計900人の傷病兵であふれかえっていた。飲料水が極度に不足していたため、1人当たりの水の配給量は1日当たり約500ml(1パイント)と、脱水症状を起こす可能性のある量にすぎなかった。トイレは使えず、排泄物は病棟からバケツで運び出さなければならなかった。汚れたシーツや血に染まった衣料がそこここに散らかっていた。

1時40分に最初の日本兵の一団が病院に入ってきた。受付にいた1人の中尉が病院は降伏したことを示すために白旗を掲げて玄関に急いで向かった。その中尉は銃剣で突き殺された。さらに日本兵が続々と建物に入り1階で患者とスタッフを殺し始めた。病院の用務係が何人かそれぞれの赤十字の腕章を示しながら、「Hospital!」と叫んだが無駄だった。カモフラージュのために小枝を戦闘服にくくりつけた約100人の日本兵が、建物全体を荒らし回り、患者を殺して、動きを止めるのは死体から時計などの金目の物を略奪するときだけだった。

手術室では5人のスタッフと手術台の上で麻酔をかけられた患者が銃剣で突き殺された。スマイリー(Smiley)大尉は胸を突き刺されたが、ポケットに入っていた金属製のタバコケースのために心臓は逸れた。大尉は次の一撃を腕で受け止めた結果、腿の付け根を刺された。さらに大尉は、右手と頭を刺されたため、サットン(Sutton)二等兵の上に倒れ込み、2人とも死んだふりをした。

日本兵は部屋を出て行ったが、スマイリー大尉は15分間横たわっていたあと、病院の司令官であったJ.W.クラーベン(Claven)中佐が2階のオフィスから降りて廊下を近づいてくるのが見えた。中佐が徹底的に破壊された病院内を進んで手術室にたどり着くまでには30分もかかった。50人ほどの死者とさらに多くのけが人が病院中に横たわっていた。一方、200人の患者と別の病棟のスタッフは病院の外に集められたが、皆後ろ手に縛られていた。どうにか足を引きづって歩けるだけの患者や片手を失った患者、ギブスをはめた患者や重病人もいた。

この大人数の一団は銃剣を突きつけられて病院の敷地から出て、鉄道線路沿いを進み、土手の下のトンネルを通ってAyer Rajah Roadに向けて歩かされた。倒れ込んだ者は誰でも銃剣で突き刺され、死んだものとみなされて見捨てられた。残りの一団は病院から400mほど離れた建物の3つの小部屋に押し込められた。ドアはバリケードでふさがれ、窓は閉めて釘付けにされた。全く換気が行われなかったため、その夜に多くが窒息死し、全員が渇きに苦しんだ。

病院に戻ると、スタッフが多くの生き残った人々をなんとかして避難させていた。Empress of Asia(「アジアの女王」というレストラン)のケータリングスタッフ(出前担当)の一員だったハリー・ヘスプ(Harry Hesp、17歳)は次のように語った。「私はタントックセン病院にいて、アレクサンドラ病院は道路を少し行った所にありました。日本兵がアレクサンドラ病院に入り込んで、見つけた人は手当たり次第銃剣で刺し殺していました。私は何人かの死体を見ました。けが人は私が働いていた病院に連れてこられました。1人の兵士は中国茶の時間にも2つの手榴弾を手放さないため、私は武器を取り上げるしかありませんでした。日本兵が来たときに、1つは日本兵のため、1つは自分のためとのことでした」
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2月15日の朝には、日本軍の将校がアレクサンドラ病院から連れてこられた捕虜が押し込められていた小部屋の1つのドアを開いて「我々はお前達を後方に送る。途中で水を飲むこともできる」と言った。捕虜達は1度に2人ずつ連れ出され、中庭を通ってトイレの建物の裏に向かい、見えなくなった。残された捕虜達は悲鳴を聞き、1人の日本兵が自分の銃剣から血を拭い取っているのを見た。このようにして100人の捕虜が血も涙もない、周到に準備されたやり方で殺害された。突然、その建物に砲弾が命中していくつかのドアや窓が吹き飛ばされて開いた。何人かの男が自由を求めて突進した。ほとんどの者は撃ち殺されたが8人が、ため池を取り巻いているやぶに逃げ込んで姿を消した。監禁されていた残り90人の患者とスタッフは二度と見かけられることはなかった。


シンガポール国内の第二次世界大戦に関連する展示館としては、上でご紹介したリフレクションズ・アット・ブキ・チャンッデゥ以外にも、チャンギ空港近く(ただし、空港からはタクシーか、地下鉄とバスを乗り継ぐ必要があります)に、チャンギ博物館・礼拝堂(Changi Museum Chapel, 1000 Upper Changi Rd N )や旧フォード工場博物館(Memories of Old Ford Factory Museum, 351 Upper Bukit Timah Rd、1942年2月15日に英国軍が日本軍に対する降伏文書に調印した場所)などがあります(2018年4月29日)。

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