問題97(政治)の答え・・・天皇を説得するために根拠として持ち出された前例は(c. 「大坂冬の陣」、d. 「桶狭間の戦い」)の2つでした。
真珠湾攻撃時点で中国と10年間も戦争を続けていた
太平洋戦争(1941年12月8日(日本時間)– 1945年8月15日、3年10カ月)と満州事変(1931年9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日本の関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)で勃発)と日中戦争(1937年7月7日に北京西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍との間の武力衝突、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)がきっかけとなって起こった。満州事変と日中戦争は太平洋戦争が始まるとその一部となりました)をまとめて十五年戦争という(柳条湖事件勃発から終戦までの期間は14年弱ですが、それ以前にも散発的な戦闘があったことから十五年戦争と言われるようです)ことからも分かるように、日本は真珠湾攻撃時点で中国とすでに断続的とはいえ10年間も戦争を続けており、しかも戦況打開のめどは立っていない状態だったのに加えて、1941年8月には日本が中国から撤退しないことなどを理由に米国が石油の対日全面禁輸を決定しました。米国から輸入した物資によって対中戦争を続けてきた日本に残された選択肢は、中国から撤退するか、じり貧に陥るか、対米戦争を仕掛けるかという3つだけでした。ところが、天皇や軍部には中国から撤退するという考えは全くなかったため、米国や英国に戦争を仕掛けるか、じり貧に陥るかの選択を天皇は迫られたことになります。
大坂冬の陣・・・じり貧よりは、いちかばちかの大ばくち
大坂冬の陣の話は真珠湾攻撃(1941年12月8日)の3カ月前の9月6日の御前会議で、その3日前の9月3日に陸海軍統帥部(空軍という組織はなく、空軍力は陸海軍に分散されていました)が共同で策定し、実質的に開戦を決定した「帝国国策遂行要領」を昭和天皇が一字の修正もなく裁可(承認)した際に、永野修身[ながの おさみ]軍令部総長(元帥[げんすい]海軍大将、帝国海軍の作戦策定、命令の責任者)が持ち出した話のようです。
永野軍令部総長より先に説明に当たった、杉山元[すぎやま げん]参謀総長(陸軍大将、帝国陸軍の作戦策定、命令の責任者)の、南方作戦は5カ月で終了するという楽観的な見通しに対して、天皇は「おまえは「支那[しな]事変(1937年に始まった日中戦争の当時の国内での正式名称)」勃発当時の陸相(陸軍大臣)だ。その時陸相として、事変は1カ月位で片付くと、言っていたことを記憶している。しかし4カ年の長きにわたり紛争は続き、いまだに片付かないではないか」と述べたところ、総長は恐懼(きょうく、恐れかしこまること)して、支那は奥地が開けているため、予定通り作戦を遂行できなかったなどという理由を挙げて延々と弁明したところ、天皇は、励声一番(れいせいいちばん、ここぞとばかり大きな声で)総長に反論して、「支那の奥地が広いと言うなら、太平洋はなお広いではないか、いかなる確信があって5カ月と言えるのか」と仰せられ、総長はひたすら頭を垂れるだけで返答することができなかったそうです(1941年10月18日まで総理大臣だった近衛文麿[このえ ふみまろ]の手記による。引用者の責任で勝手に口語体に翻訳しました。また、この手記では杉山参謀総長は3カ月で南方作戦は終了すると言ったことになっているのに対して、杉山参謀長自身の手記では5カ月で終了すると言ったことになっており、この点について、『近衛文麿の記憶違いであろう』と『天皇の戦争責任』井上清著、同時代ライブラリー、岩波書店刊』に指摘されているため、この部分では5カ月に訂正しました)。
この時点までの問答の内容は天皇が開戦に対して積極的になっているとはとても考えられないものでしたが、開戦の決断を下したのは、「なにがなんでも戦争しろといっているのではないが、大坂冬の陣の翌年の夏、大坂夏の陣が起こったときに、もう絶対に勝てないような状態に置かれて騙[だま]されてしまった豊臣氏のようになっては日本の将来のためにならない」という主旨の永野軍令部総長の発言に天皇が強い印象を受けたためだったようです(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』401ページ、以下『それでも・・・』)。
桶狭間の戦い・・・・奇襲作戦の効果を過大評価
真珠湾を奇襲攻撃して、停泊している主力戦艦を航空機による魚雷攻撃などで一網打尽[いちもうだじん、悪人の仲間などを一度にすべてとらえること]にするという作戦を思い付いたのは山本五十六[いそろく]連合艦隊司令長官だったようです。「英米二国の海軍を両方同時に相手にするだけの力は日本の海軍にはない。・・・しかし、戦艦や空母を沈めてしまえば、新たに艦船を建造するためには、当時であれば1年から2年かかると思われていた。アメリカ側が建造に手間取っている間に、日本側は、日本列島と朝鮮半島、台湾と、周辺の東南アジアの地域を哨戒(しょうかい、敵の襲撃に備え、見張りをして警戒すること)するのに十分な飛行場を各地に建設し、そのネットワークを生かして制空権を確保すれば、自ずと、その下を通る船舶の安全も確保できる」と山本司令長官は考えたそうです(『それでも・・・』436-437ページ)。
「天皇に対して、この山本の作戦が説明され、承認を得たのは1941年11月15日でした。特に真珠湾攻撃に関しては「桶狭間の戦いにも比すべき」奇襲作戦であるとの説明がなされ、艦隊同士の主力決戦になっても「十分なる勝算」があり、持久戦になっても「海上交通線の保護は可能」だから、対米武力戦は可能だとされたのです。・・・大坂冬の陣にしろ、桶狭間の戦いにしろ、昭和天皇がこのような史実を用いた講談調(講談は話芸の一種、釈台(小卓)を張扇(はりおうぎ)でたたきつつ物語類を語り聞かせる寄席芸。例えば。問題51(県民性) でご紹介した『県民性の人間学』〔祖父江孝夫(そふえ たかお)著、新潮社、新潮OH!文庫、74ページ〕によれば「水戸黄門漫遊記」は水戸光圀(みつくに)の死後100年以上もたった幕末から明治初年にかけて作られた講談をもとにしており、悪い役人等を懲らしめながら全国を歩いたというのは全くのフィクションのようです)の説得に実の所弱いとみた海軍側の智恵であったのかも知れません」(『それでも・・・』437-438ページ)。
中国人1,000万人、日本人221万人、その他のアジア地域の人々880万人の命を奪うことになった戦争の開始が講談調の説得によって決定されたことは信じ難い点です(死者数のデータは問題74(人権)の答えでご紹介した『20世紀全記録』に引用されていた本多公栄著『ぼくらの太平洋戦争』によるものですが、中国人の犠牲者数については、『それでも・・・』では中国が作成した統計では軍人の戦死傷者が約330万人、民間人の死傷者数が約800万人の合計約1,130万人とされています(同書458ページ)。さらに『地図で読む世界の歴史、第2次世界大戦』(ジョン・ピムロット著、河出書房新社刊、以下『地図で読む・・・』)によれば中国人の犠牲者数は約1,500万人とされています。この本によれば、全世界での第2次世界大戦の犠牲者数は約6,000万人だそうです)。
真珠湾攻撃は大成功でしたが、勝ち戦(いくさ)は最初の半年だけ
真珠湾攻撃は日本時間で1941年12月8日(月曜日)午前3時19分(現地時間では7日(日曜日)の午前7時55分)に開始されました。攻撃開始はワシントンで野村吉三郎(きちさぶろう)駐米大使がハル国務長官に対米最後通牒(つうちょう、自国の主張を相手国が受け入れない場合には戦争を開始するという通告、つまり条件付きの宣戦布告)を手渡す1時間前でしたので、日本は宣戦布告前に奇襲攻撃をしかけたことになります。この奇襲攻撃の戦果(戦争によって得た成果)は華々しいもので、アメリカの記録によれば、海軍の戦死者(海兵隊を含む)3,077人、戦傷者が876人、陸軍の戦死者が226人、戦傷者が396人(これを合計すると戦死者が3,303人、戦傷者1,272人)、沈められた戦艦は5隻、駆逐艦2隻、破壊された航空機188機だったそうですが、別の場所に待避していた航空母艦(空母)を攻撃できなかったことはその後の戦局に大きな影響を与えたようです(『それでも・・・』436、439ページ)。
海軍による真珠湾攻撃の1時間19分前の午前2時(日本時間)には、陸軍が英領マレー半島のコタバル(マレーシアの太平洋岸のタイ国境近く)に上陸を開始しました。同時にタイのシンゴラ、バッターニにも上陸した山下奉文(ともゆき)中将が率いる日本陸軍は戦略上重要なマレー半島南端のシンガポールを目指して目覚ましい勢いで(自転車などを使って)進撃を続け、翌1942年2月7日にはシンガポール領の北東端に当たるブラウ・ウビン島に上陸し、2月15日にはシンガポールを完全に制圧しました。シンガポールが比較的簡単に制圧できた一因は、シンガポールの防衛戦略では攻撃は海側(南側)から行われることが前提になっていたため、マレー半島側からの攻撃には弱かったという面もあったようです。
(2018年6月6日追記:シンガポールにおける日本軍の残虐行為については、「風景写真アルバム」の「ケッペル・ベイの高層住宅群」に含まれている「近くのアレクサンドラ病院は日本軍が200人以上の軍医、看護兵、患者などを虐殺した現場」や同じく「ブギスのコーヒーショップ」に含まれている「フラトン・ホテル」についてのコメントをご参照ください。)
日本軍はさらに、3月3日までにインドネシア(当時はオランダ領東インドと呼ばれていた)のスマトラ島とジャワ島を、4月9日までには米軍が駐留していたフィリピンを、5月までにはミャンマー(当時はビルマと呼ばれていました)を占領しましたが、目覚ましい進撃はここまででした。
開戦半年後のミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いで大敗した後の3年間は敗退と玉砕の連続
真珠湾攻撃でたまたま洋上に出ていた空母ホーネットを発進したB-25爆撃機による東京の最初の爆撃は、真珠湾攻撃のわずか4カ月後の1942年4月18日でした。不意を突かれる形になったこの爆撃によって、スリランカ(当時のセイロン)のイギリス軍と戦うためにインド洋に展開していた日本海軍は、太平洋に戻らざるを得なくなりました。日米両海軍はパプアニューギニア南東沖合でオーストラリアのグレートバリアリーフの北東沖合に当たる珊瑚(さんご)海で1942年5月7日に最初に接触しました。この珊瑚海の海戦では、日米両軍がそれぞれ空母1隻を失い、1隻が大きな損害を受けましたが、日本軍の快進撃が食い止められたのはこの海戦が最初でした。
日本軍が次に向かったのはハワイの北西1900kmに位置するミッドウェー島でした。日本軍は1942年6月4日にミッドウェー島の空港の奪取のために空母4隻などの精鋭部隊で最初の攻撃をしかけました。しかし、珊瑚海海戦の場合同様、米軍は暗号解読によって日本の作戦を事前に把握していたこともあって、日本軍は一斉反撃を受け、空母4隻と空母の艦載機332機のすべて、巡洋艦1隻をこの海戦で失いました(ミッドウェー海戦)。これに対して、米国も空母1隻、航空機137機を失いましたが、米国はこの損害を短期間で補えるほど、生産能力を急増させていました。ミッドウェー海戦によって太平洋戦争の形勢は逆転したと考えられているようです。
地上戦で日本軍の快進撃にストップがかかったのが、ニューギニア島の東側約1,000kmで珊瑚海の北東にあるガダルカナル島の戦闘でした。日本軍は1942年4月時点でガダルカナル島を占領していて、空港の建設を開始しましたが、その空港が完成した8月5日の2日後に当たる7日に1万900人もの米軍が突然島に上陸して、日本軍守備隊がわずか600人しか駐留していなかったこともあって、米軍が空港を占領しました。日本軍は直ちに反撃に出て、増援部隊を次々と投入しましたが、8月21日の空港奪還作戦では、敵が1万人以上と10倍以上の兵力であるであることや、こちらの動静は事前に敵に把握されていることを知らずに、日本軍は900人の部隊で奇襲攻撃をしかけた結果、徹底的に反撃されて、800人の戦死者を出したのに対して、米軍の死者は35人だったそうです。日本軍は9月12日にも空港攻略の戦いで600人以上の戦死者を出し、10月下旬からの奪還作戦も死体の山を築くだけだったそうです(『地図で読む・・・』116ページ)。11月のガダルカナル島近海での海戦で、米軍は巡洋艦2隻と駆逐艦7隻を失いながら、日本の戦艦2隻、駆逐艦4隻、輸送船10隻を沈めたことから、ガダルカナルの日本軍は海上からの支援を失って孤立し、兵器だけでなく食料も不足し、兵士は戦闘どころではなくなり(ガダルカナル島は、「餓島(がとう)」つまり餓死(がし、飢え死に)の島とも呼ばれるようになったそうです)、1943年2月までに撤退せざるを得なくなりました。ガダルカナル島の戦いで日本軍は約2万人の死者を出したと言われています。
その後の3年間に日本軍は敗退か玉砕(つまり全滅)を続けましたが、敗戦が決定的になったのは2年後となる1944年6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦(米軍では「フィリピン海海戦」と呼ばれているそうです)だったそうです。マリアナ諸島には、サイパン島、グアム島、テニアン島が含まれますが、マリアナ諸島に空港があると日本列島の大半を戦略爆撃機B29で爆撃できるようになるため、重要な戦略上の拠点でした。アメリカ軍は海戦初日(6月19日)の正午までに日本軍艦載機(空母に載せられる戦闘機)243機を撃墜しましたが、この時点で米軍が失った航空機は30機だったそうです。日本軍は2日間の海戦で空母3隻が沈没するなど主要な艦船と航空機426機を失ったのに対して、米軍は1隻の艦船も失わないという圧倒的な勝利を収め、広島に原爆が投下される1年2カ月前のこの時点で太平洋戦争の勝敗は決定的となりました。
敗戦の原因
第一次大戦と第二次大戦は、軍隊の力だけではなく、国の産業力、情報収集、処理能力などを加えた、総合力で勝負が決まる「総力戦」であったにもかかわらず、日本軍は講談調の説明にあるように、軍隊をうまく動かせば大国にも勝てると考えてしまったところが基本的な敗戦の理由でした。その背景にはナチスドイツがドイツ人は特別な人種であると信じていたのと同様に、日本人は神である天皇が指導する神聖な国家であると信じてしまったことがあるようです。その結果、米国の経済力、工業力を見損ない無謀な戦争を仕掛けることになりました。日本の敗戦は「総力」に劣ることが根本原因でしたが、具体的には、(1)武器の生産能力の日米格差が日本の予想をはるかに上回るペースで拡大した、(2)近代的な作戦能力の欠如、(3)開戦当初から主要な暗号が米国に解読されていた、(4)科学技術の水準の差を挙げることができます。
(1)武器の増産能力の差・・・例えば、第二次大戦では航空機の保有機数が戦闘の行方を決定する最大の要因でしたが、日本の艦載機の生産能力を100とした場合の米国の生産能力は、1941年12月には107とあまり差はありませんでしたが、1943年6月には231と2倍を上回り、1944年6月には580、敗戦直前の1944年7月には1509と15倍以上になりました。これでは誰が考えても勝てるはずはありません(『それでも・・・』の435ページ)。
(2)近代的な作戦能力の欠如・・・『餓死(うえじに)した英霊たち』(藤原彰著、青木書店)の内容が『それでも・・・』の469ページに紹介されていましたので、これを引用させていただきます。
「戦争には食料がいる。ニューギニア北部のジャングルなどには自動車道はない。兵士の1日の主食は600グラムです。最前線で5,000人の兵士を動かそうとすると、基地から前線までの距離にもよりますが、主食だけを担(かつ)いで運ぶのを想定すると、なんと、そのためだけに人員が3万人くらい必要になるのです。しかし、このような計算にしたがって食糧補給をした前線など1つもなかった。この戦線では戦死者ではなく餓死者がほとんどだったと言われるゆえんです。」
さらに、日本軍は国民の食料のこともまともに配慮していなかったようです。『それでも・・・』の470ページによると、敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年の6割に落ちていましたが、これは農民には徴兵猶予がほとんどなかったため、次々と戦場に駆り出され、1944年頃から農業生産能力が急落したためでした。事態の深刻化に危機感を持った軍部は44年に農民にも徴兵猶予を開始しますが、遅すぎました。これに比べてドイツは降伏する3カ月前の1945年3月のカロリー消費量は1933年の1、2割増しだったそうです。国民に配給する食糧だけは絶対に減らさないという方針だったそうです。
(3)開戦当初から暗号が米国に解読されていた・・・日本軍の暗号は開戦当初から米国に解読されていたようです。このことが戦局を大きく左右したケースが多数あったようです。太平洋戦争の戦局を逆転させたミッドウェー海戦でも、日本軍は北太平洋のアリューシャン諸島を最初に攻撃してアメリカ軍の注意を引いてその戦力を分断してから、ミッドウェー諸島を攻撃しようという作戦でしたが、この情報が米国に解読されていたため、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督は、アリューシャン攻撃を完全に無視して、全艦隊をミッドウェー近海に集中的に展開したことが、米国に有利に働いたことは確かとみられます。また、マリアナ沖海戦でも日本軍は主力艦隊の200km前方に囮(おとり)の小艦隊を走らせてアメリカ軍艦載機の大部分を引きつけておき、日本の主力艦隊から発進した航空機で米国の第58機動部隊を撃破するという作戦でしたが、この作戦も筒抜けだったため、上でも触れたように、日本軍は主力艦隊が攻撃を受けて、戦端が開かれた日の午前中だけで243機の艦載機を失い、アメリカ側の損害は30機にとどまり、アメリカ側では後にこの戦闘のことを「マリアナの大カモ猟」と豪語したそうです。
真珠湾攻撃も事前に察知されていた可能性が高い
開戦後半年で諜報能力がこれほどの水準に達するとは考えにくく、真珠湾攻撃もアメリカのルーズベルト大統領が事前に察知していながら、それを放置した可能性が高いとみられます(真珠湾攻撃陰謀説)。特に、航空母艦が港外に避難していたのは、ある程度の被害を受けることは想定したものの、戦力上特に重要な空母は温存したいという狙いがあったとみられるようです。ルーズベルトは選挙戦において「あなたたちの子供を戦場には出さない」ということを公約にしていたため、真珠湾攻撃前にアメリカは中立の立場をとっていました。
しかし、ルーズベルト大統領は参戦やむなしと考えを変えていた可能性が高く、1940年9月27日、日独伊三国同盟条約が調印されたことを聞いて、側近に「これで、日本をわれわれとの戦争に誘いこめる」と語ったとされています。また次のようなコメントも真珠湾攻撃陰謀説についてのWikipediaには載っていました(出所は加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書)
1941年8月9日からルーズベルトとウィンストン・チャーチルはニューファンドランド島の沖合のアルジェンチア(引用者追記:実際にはカナダのニューファンドランド島東部半島にあるArgentiaという漁村)で会談を行った。チャーチルは何としてもアメリカをヨーロッパ戦争に参加させ、ナチス・ドイツとの戦争に勝利しなければならなかったのである。チャーチルはルーズベルトに、アメリカがドイツに対して即刻宣戦を布告することを求めたが、ルーズベルトは国内世論の制約があったので、「まだ、それはできない」と答えた。しかし、「あと数カ月は、日本という赤児(あかご、赤ん坊)をあやすつもりだ」としばらく待つよう語って、チャーチルを喜ばせた。
ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていたにもかかわらず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた可能性が高いとみられます。ただし、この説を米国政府は否定しています。というのは、多数の死者が出た攻撃が行われることを放置していたとは政府としては決して言えないためです。その辺の事情は、同時多発テロの際の米国政府の対応と似ています。同時多発テロでも「・・・少なくとも米政府が事前にテロのことを察知していたものの、何らかの理由でその発生を防ごうとしなかった、そしてその発生後は直ちにそれを最大限に活用して国内外の世論を誘導したという事実は否定できない」ようです(マイケル・ムーア著『アホでマヌケなアメリカ白人』の翻訳者のあとがき、307ページ、詳しくは問題68(政治)の答えをご参照ください)。ただし、同時多発テロから恩恵を受けたのは、ブッシュ政権と共和党保守派のみに限られました。
日本軍にとって第2次世界大戦で最大の成功体験となった真珠湾攻撃は、実はアメリカに事前に察知されていて、米国の策略に乗せられたものだったという説は、日本の愛国主義者にとっても認めがたいものと言えます。そこで日本の愛国主義者達もこの説を強く否定しています。例えば、海軍の退役軍人であるスティネット氏の著書で、アメリカが日本の暗号の解読に成功したのは1920年代であると指摘されている『真珠湾の真実』について、官僚出身で防衛庁に所属していたこともあるの歴史家、秦郁彦(はた いくひと)氏は『アメリカにおいては「初めからお終いまで間違いだらけ」として顧みられなかった』と指摘しています(Wikipediaに引用されていた秦郁彦著
『陰謀史観』 新潮社、2012年、185ページのコメント)。ところが、Amazon.comの原著("Day Of Deceit: The
Truth About FDR and Pearl Harbor")の評価では評価者の56%がこの本に対して最上位(5 star) の評価をしています。一般に権威とされている人物の言葉もAmazon.comのデータで簡単にウソであることが分かるというのは、インターネットのお陰ですね。
(4)科学技術の水準の差
太平洋戦争は最後は原爆で勝敗が決しましたが、真珠湾攻撃時点でアメリカが原爆を持っていて、そのことを日本に伝えていたとすれば、太平洋戦争はなかったのではないかと思います。その他の兵器も第二次世界大戦中に革命的進歩をとげました。例えば、海軍力は従来は戦艦が中心とされていましたが、第二次世界大戦で主役の座が航空母艦に交代しました。また、レーダーは1935年にイギリスで開発されましたが、アメリカ海軍がイギリスからの技術供与で実用化したマイクロ波レーダーを活用して、サボ島沖海戦(ガダルカナル島周辺において1942年10月11日深夜〜12日に日本軍とアメリカ軍の間で行われた海戦)やビラ・スタンモーア夜戦(1943年3月5日にソロモン諸島で起こった日米の海戦。ガダルカナル撤退後、日本軍の新たな拠点となったコロンバンガラ島への輸送に従事していた駆逐艦2隻とコロンバンガラ島への艦砲射撃を企図したアメリカ海軍の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦二隻が一方的な攻撃を受けて沈没した)で、レーダーを持っていなかった日本海軍を相手に勝利をおさめました。こうして、レーダーは戦術、戦略上でも重要な兵器であることを実証したそうです(Wikipediaのレーダーの項による)。日本軍の艦船は敵が望遠鏡で見えるようになる前に、レーダーによって敵に捕捉されて攻撃されるようになったようです。
最後に加藤教授の講義の前の中高生の疑問にお答えすることにします。
(1)日米で圧倒的に戦力差があるのに、なぜ奇襲攻撃をかけたか・・・・日本軍は第一次大戦以降、戦争というのは、国の総力(経済力、情報力、科学、工学の水準など)をかけて行うようになったということを十分認識していたかったため、小手先の手段で勝てるという甘い見通しを立ててしまったことが根本原因だと思います。
(2)日本軍は最終的に何を目的にして戦争を始めたのか・・・日本が中国から撤退しないことを理由に米国が石油などの禁輸を実施したため、中国から撤退する気のない日本は、東南アジア全域を支配して石油などの資源を調達しようとして、いちかばちかの大ばくちに出たということだと思います。
戦争の目的と関連して、開戦時の首相だった東条英機が考えていた戦争を終結させるための計画(「対米英蘭将(蘭はオランダ、将とは蒋介石、つまり中国のこと)戦争終末促進に関する腹案」)の内容を『それでも・・・』(402ページ)から引用させていただきます。
「・・・すでに戦争をしていたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対イギリス戦に集中させることで、まずはイギリスを屈服させることができる。イギリスが屈服すれば、アメリカの継戦への意欲が薄れるだろうから、戦争は終わる」
これについて加藤教授は「他力本願の極致」と表現されていますが、この腹案の引用部分の見通しはすべて外れました。こんなめちゃくちゃな楽観的空想(というか、今となってみればほとんど妄想と思えます)の背景には、旧軍部の情報力、理性的判断力の欠如と、日本はすばらしい神の国であると信じるという狂信性があったと思います。こうした正気の沙汰とは思えない戦争を肯定する安倍晋三首相や日本会議のような組織が、日本は美しい国だなどとうそぶいて、ばかなことを繰り返さないようにしっかりと監視していく必要があると思います(2017年8月11日)。
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