イタリアの精神病院「遺跡」

上の写真は2019年5月に訪問したフィレンツェのかつての精神病院(「サン・サルヴィ精神病院」)の廃墟です。ちょっと見にくいんですが、すべての窓に鉄格子が取り付けられています。ピーク時にはこの病院に3000人の患者が収容されていたそうです。世界の精神科病床の5分の1が集中する「精神病院大国」である日本にいると信じられなしかもしれませんが、イタリアでは1999年3月までに精神病院が完全に廃止されました。これはイタリア全国で精神病院を廃止することを定めた『180号法(通称、「バザーリア法」)』が1978年に成立したためです。この法律の制定を主導したのが、偉大な精神科医の故フランコ・バザーリアで、バザーリアは、患者を病室に閉じ込めるのは人権侵害であり、社会の中で治療する方が治療効果が高いと主張しました(この件については問題98(医療)とその答えに詳しく説明しました)。

日本の精神科病床の大半は民間の精神病院にありますが、イタリアの精神科病床の大半は大規模な公立病院にありました。その病院の跡地がどうなっているかを見たいと思って、日本の精神医療制度改革を先導されてきた、元朝日新聞記者でジャーナリストの大熊一夫様に、訪問は可能かどうかをお聞きしたところ、「事前の申し込みなしのいわゆる”突撃取材”のようですが、この手法で、「バザーリア改革についての情報」を得ることは、難しいと思います」とのお話で、特にバザーリアがかつて院長を務め、1977年に一番早く閉鎖が宣言された精神病院である、「(県立)サンジョバンニ精神病院(イタリアの東端でスロベニア国境近くのトリエステ市にある)」には世界中からひっきりなしに視察団が訪れているため、飛び込みは不可能で、担当者に予約を入れて面会するためには1人について数万円の手数料が必要なようだとのお話でした。そのため、単なる通行人の立場で外から各地(フィレンツェ、トリエステ、ローマ、ヴェネチア)の精神病院跡地を拝見させていただくことにしました。ただ、跡地には必ず、かつての患者が運営しているバール(Bar、フランスのカフェに対応)があるので、寄ることができるとか、精神病院の機能を受け継いだ精神保健センターは市内の普通の建物に入っているため分かりづらいことなどの貴重な情報を教えていただきました。大熊様、素人に詳しく教えていただいてありがとうございました。

上の写真はサン・サルヴィ精神病院跡地の入り口です。各地の精神病院跡地には必ずゲートが残されていました。入り口の左側に立ち入り禁止のような意味不明の標識があったので入るのに躊躇しましたが、門の左側にある守衛室の守衛さんに一礼すると入れるようでした。

左側の門柱には、精神病院時代の看板(白い大理石板)が残っていました。正式名称は、"Opera Pia del Manicomio di Firenze Ospedale Psichiatrico Vicenzo Charugi" 「フィレンツェ・ヴィンチェンツォ・キアルージ精神病院福祉施設」だったようです。Opera Piaは歌劇とは無関係で、operaは事業、piaは敬虔なという意味のようです。また、ボローニャにもOpera Piaという施設がかつてありそれが、市立の福祉施設だったようなので、同じ意味と解釈しました。ヴィンチェンツォ・キアルージは有名な精神科医(1759年~1820年)のようです。wikipediaによれば、「1785年、イタリアでは近代的精神医療をめざした聖ボニファチェ病院が(フィレンツェに)開設され、院長のヴィンチェンツォ・キアルージが精神障害者に対する開放的処遇を発表。病歴記載方法、高度の衛生管理、レクリエーション施設、作業療法、拘束の制限など、人権思想に関する当時としては極めて先進的な手法を提示した」とのことです。つまり問題98(医療)の答えでご紹介した、「近代精神医学の父」と呼ばれているフランスのフィリップ・ピネルよりも早い時期に精神医療改革を推進した医師のようです。現在ではこの病院の跡地は"Area San Salvi"(サン・サルヴィ地区)と呼ばれています。

サン・サルヴィ地区の案内図ですが、google mapで調べると、横幅が600m、上下の幅が300m位あるようです。入り口は左下の赤丸の場所です。黒く描かれている建物は再利用されている部分で、白く描かれている建物は空き屋になっているようです。最初の写真の建物は右端に縦に3つ並んでいる白い建物の真ん中の小さい空き屋でした。

これが跡地には必ずあるというバールですが(ただし、垂れ幕にはUlisse Barnum/Caffè・Social Pub・Ulisse/cooperativa socialeと書かれています。店名はUlisse Barnum「ユリシーズ・バーナム」で社会的協同組合組織が運営しているようです)、中でコーヒー(なんと1ユーロ)を注文するついでに何が資料はないかとお尋ねすると。「キレ・デ・ラ・バランツァ」("Chille de la Balanza")という元患者達が運営する劇団があり、そこに行くと何かあるだろうということでした。早速、劇団の事務所に行ってみると、劇団の由来についての資料はいただけましたが、病院についての資料はありませんでした。この劇団は元々はナポリにあったそうですが、病院閉鎖間際の1997年にたまたま「ヴァン・ゴッホ・・社会による自殺(Van Gogh il suicidato della società)」という劇をサンサルヴィで上演したことがきっかけとなって、この場所に移ったそうです。劇団名の「キレ・デ・ラ・バランツァ」は17世紀頃にナポリの中心街(Centro Antico)の通りで果物や野菜を売っていた商人達で、そのため天秤ばかり(balanza)を持った人々(chille は 現代イタリア語のquelli、人、物、ことなど、英語のthoseに対応するようです)という意味のようです。この商人達はまたいろいろな話を聞き集めていて、夜になると居酒屋でワインを飲みながら話を聞かせたそうです。

案内図で周回道路の右上端に黒く描かれている建物は、介護サービスの共同組合の建物のようでした。

入り口を入ってすぐ左側の立派な建物(案内図では鍋の断面図みたいな形に描かれています)は小学校として使われていました。校庭で子ども達が遊んでいました。

トリエステのサンジョバンニ精神病院跡

次の2枚の写真はトリエステのサンジョバンニ精神病院が1908年に竣工した2年後の1910年に写真家のM・ストロブルが撮影したもので、『精神病院のない社会をめざして・・・バザーリア伝』(ミケーレ・ザネッティ、フランチェスコ・バルメジャーニ著、岩波書店刊、132ページ、134ページ)からコピーさせていただきました。竣工当時のトリエステはオーストリア=ハンガリー帝国の一部でしたが、オーストリアは、当時フロイトが活躍するなど、精神医学の先進国であったことが、こんな立派な病院が建設された一因かもしれません。この病院にはピーク時には1,200人の精神病患者が収容されていたそうですが、1978年にイタリアで(ということは世界で)最初に治療方法の改善のために閉鎖された精神病院となりました。

24万平方メートルという広大な敷地に約40棟の建物や庭園、大通りが建設され、総工費は現在の貨幣価値で換算すると約3億ユーロ(現在の1ユーロ126円というレートで換算すると約380億円)に達しました。

病院の閉鎖後はこの地域は「サン・ジョバンニ公園」と名付けられ、トリエステ県、トリエステ市保険サービス公社、トリエステ大学、同大学付属の精神科、自然科学関連の2学部、複数の社会共同組合の活動拠点、元入院患者のためのグループ・ホームや、なぜか国立南極博物館などとして利用されています。

下の写真は上の配置図では一番下の右手にあるかつての病院の入り口で、こちらにもゲートが残されていました。



上の写真は精神病院からの患者の解放を象徴するモニュメントで、敷地内にある「マルコ・カヴァロ」という馬の像です。フランコ・バザーリアは患者達が持続的に安定した関わりが持てるような作業を集団で行えるように、友人の彫刻家、教師、映画監督に協力を要請しましたが、患者達は大量の汚れた洗濯物が載せられた荷車を引いて毎日洗濯場まで引きずるように運んでいた、馬のマルコに愛着を持っていたため、マルコの像を制作することを希望しました。彫刻家などの協力で完成した最初のマルコ像は張りぼてでしたが、マルコ像の完成の際には、「マニコミオ(イタリア語で精神病院のこと)」内では盛大なパーティーが開かれ、その後トリエステの町全体を巻き込んだ祝賀会が催されたそうです。こうした成り行きについては『精神病院はいらない! イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言』(大熊一夫編著、現代書館)の付録となっている映画『むかしMattoの町があった』(DVD2枚)でも主要テーマとして取り上げられています。上の写真に写っている現在のマルコ像はその後ブロンズ像として作り直されたものです。このブロンズ像は張り子の像の制作から参加していた画家兼彫刻家でフランコ・バザーリアの従兄弟でもあるヴィットーリオ・バザーリアの作で、同氏の個展の際には大きないかだに載せられてヴェネチアの大運河でも展示されたそうです。

公園は傾斜地にあって、一番下の入り口から最上部の教会までは100m近くの高低差があります。この建物は最上段にあったものですが、壁には「真実は大変革をもたらす」と書かれています。壁に黄色い漆喰(しっくい)が塗られているのは、オーストリアのパプスブルグ家に関係ある建物の特徴だそうです。

その隣の建物の壁には、「自由こそ治療だ」と書かれていました。

サンジョバンニ公園の最上段にあるバールと教会です。バールは"Posto delle Fragole" (イチゴのあるところ)という名前で、大熊様によれば、イングマン・ベルイマン監督の「野いちご」という名画のタイトルからとった名前だそうです。このバールのメニューは、市内のバール並みの豊富さで軽食も提供されていました。

最上段にはかなり大きなバラ園も整備されていました。

上の写真は「マルコ・カヴァロ」という馬の像の横にあった建物ですが、左側の看板が、WHO(世界保健機構、国連の専門機関の1つ)がトリエステのやり方を認めて、公園内に設置した「WHOメンタルへルス調査研修コラボレイティングセンター」(問題98(医療)の答えでもご紹介しました)で右側の看板は市の精神保険局のものでした。

上の写真の階段と、階段の上にある下の写真の建物は、この写真上9枚目の1910年当時の白黒写真にも写っています。


ローマのサンタ・マリア・デッラ・ピエタ精神病院跡


ローマを含むローマ県のかつての精神病院は「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ精神病院(Manicomio Provinciale Santa Maria della Pietà)」で、ピーク時には2600人以上の患者が収容されていましたが1999年に廃止され、その跡地は「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ公園」となっています。敷地は縦800m、横600mくらいの菱形状で、49の建物が建っていて、そのうち29棟が病棟として使われていましたが、現在でも空き屋となった建物が多数あるようでした。ローマの北西に位置するイタリア鉄道会社(トレニタリア/Trenitalia、旧国鉄)のローマ・モンテ・マリオ(Roma Monte Mario)駅から徒歩5分の位置に正門があります(ローマのテルミニ駅から地下鉄で15分位のトラステベーレTrastevereで国鉄に乗り換えて15分くらいで着きます)。私はグーグルマップの指示に従って歩いたところ、裏口から入って、裏口から出てしまい、正門は通りませんでしたが、グーグルのストリートビューに正門の写真があったので、コピーさせていただきました。

この公園の中には、下の写真の「精神病理学研究所博物館(Museo Laboratorio della Mente)」があります。この博物館は2008年に開館しましたが、精神活動の不思議を誰にでも分かる形でインタラクティブな方法で展示しているだけでなく、かつての精神病院の状況の一部が展示されていました。ここが博物館の入り口ですが、私が訪問したときには入場者は私1人だけでした。(余談になりますが、そんな場所でも左下に写っているようにゴミ箱があります。これは日本では考えられないことだと思います。イタリアでは、どんな場所に行ってもゴミ箱があるのには感心しました。日本では公園でもゴミ箱がないところが多いのは非常に不便だと思います。特にひどいのは東京都武蔵野市の井の頭公園で、飲み物の自販機のそばに空き缶入れさえもないため、飲み物を買ったら、空き缶は持ち帰らなければなりませんので、ご注意ください。)

博物館の外壁には、精神病院の患者達の様子を示した壁画が描かれていました。

下は精神病院時代の診察室を再現した展示です。右隣の部屋には(おそらく亡くなった)患者の身の回り品が雑然と積まれていました(特別に内部の撮影を許可していただきました)。

ここにも元患者が運営するバールがありました(ここでも看板にはCaffèと書かれていました。ただし、バールはこの建物の右端の部分だけを占めていました)。

公園中心部の広場ですが、精神病院とは思えないたたずまいでした。

公園最寄りのローマ・モンテ・マリオ駅の入り口です。日本の駅だと立派な駅名看板が必ずありますが、この駅の場合、落書きのような駅名が入り口の上に書かれているだけでした。ただし、反対側の入り口には文字を切り抜いてフレームに固定した(切り文字というそうです)駅名の表示がありました。


ヴェネチアの県立サン・セルボロ精神病院跡

ヴェネチアにはサン・セルボロ島とサン・クレメンテ島に精神病院がありましたが、前者は主に男性患者、後者は主に女性患者を収容していたようです。サン・セルボロ精神病院は1978年に、サン・クレメンテ精神病院は1992年にそれぞれ閉鎖されたようです。サン・セルボロ島には現在では、「精神病院博物館(Museo del Manicomio)」がありますが、そのほかにヴェネチア国際大学の校舎、国際会議場、イベント会場、アートスペースなどがあります。今回の旅行のためにいろいろと教えていただいた大熊一夫様は、2008年にフランコ・バザーリア財団から第1回「バザーリア学術賞」を授与されましたが、その際の授与式と大熊氏のイタリア語での記念講演とセミナーが行われたのもこの島の「バザーリア・ホール」においてでした。この場所が授与式の会場に選ばれたのはおそらく、バザーリアがヴェネチアの出身であることと関係していると思います。また、サンクレメンテ島は現在では島全体が5つ星ホテルになっているようですが、高級リゾート地のような感じなので(費用対効果の関係から)訪問しませんでした。

上の写真はサン・セルボロ島ですが、かつての精神病院で現在は博物館になっている建物が写っています。ヴェネチア本島のサンマルコ広場近くにあるサンマルコ・ザッカーリアという水上バス(Vaporetto、ヴァポレットとも呼ばれています)乗り場から、昼間だと1時間おきぐらいに出ている20番か19番という水上バスに乗ると10分でサン・セルボロ島に着きます。

上の写真は精神病院博物館に展示されていた、拘束具です。日本では今でもこんな感じの装具が使われていると思います。

電気ショック療法のための装置も展示されていました。

作業療法(ergoterapia)で患者が制作した作品も展示されていました。

ここはかつての解剖室で頭蓋骨や脳の標本が展示されていました。

イタリアの精神病院「遺跡」を4カ所回りましたが、どこもキリスト教の慈善施設がベースになった非常にりっぱな施設で、日本の殺風景な精神病院とはかなり違っていました。そんな立派な施設の利用を1人の精神科医の考えに基づいてすべて中止してしまうというのは、大変な決断だったと思うと同時に、この大変革を実現したバザーリア法の成立を支持したイタリア国民もすばらしい人々だと思いました(2021年2月28日)。

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