問題 13(日本語)の答え・・・「c.更なる」が正解です。

飛田教授の近著「翻訳の技法」(研究社)の最後に「私の日本語表記」という節があり、教授が採用している標準的な日本語表記が表にしてあります(同書179-195ページの17ページ)。ここには、国語辞典だけでは、仮名書きが適当か、漢字を使った方がいいか、同音異義語がある場合に、どの漢字を使ったらいいかなどがはっきりしない単語の表記法を五十音順に挙げてあります。例えば、「たとえば」の表記は、「例えば」でも「たとえば」でもいいとされていますし(「記者ハンドブック」(共同通信社刊)では「例えば」に統一されています)、「さまざま」はかなで書くことが推奨されています(記者ハンドブックでも同じ)。

国語辞典では漢字、仮名のどちらで書いてもいいとされていても、新聞や雑誌では、かなり厳密なルールに基づいて文章が書かれているようです。日本語の標準的な表記法については、上記の「記者ハンドブック」が最も詳細かつ親切だと思いますが、朝日新聞社からも類書が出ています。

「記者ハンドブック」などは、最初から日本語で書かれた新聞などの文章を対象としているのに対して、飛田教授の「私の日本語表記」は、文学作品などの翻訳の際の表記を念頭においている点が異なっています。

この表の「さらに」の項目では、『「さらに」とかなで書くことを推奨するが、「更に」も良く使われるためにあえてその使用を否定するものではない。「更なる」は私の辞書にはない言葉』とされています。また、この17ページにわたる表の中で、教授がはっきりと使わないことを推奨している単語は「更なる」以外にはあまりせんでした。

NHKニュースの海外からの記者の報告などで、「一層の経済成長」という意味で、「更なる経済成長」なとどという表現がよく使われます。このようによく使われている「更なる」という表現がなぜ教授の「辞書にない」のかについての説明は同書にはありませんでした。私はこれには二つの理由があると思います。

第一の理由は、教授の辞書だけでなく、国語辞典や古語辞典にもこの表現は私の見る限り載っていないという点です。記者ハンドブックだけでなく、新明解国語辞典、広辞苑、大辞林という代表的な国語辞典にこの表現は載っていない上、高校生の息子が持っている小学館全訳古語例解辞典にも載っていませんでした。

古語には全くのしろうとで、高校3年生の時の国語の成績が5段階評価の2だった私の邪推によれば、「更なる」は、「更に」から「に」を取って名詞と考え、「春日なる三笠の山に」(古今集)に出てくる断定の助動詞「なり」の連体形「なる」を付けた、一見文語っぽい表現のように思えます。ところが、文語の「更」には、(1)わかりきって、いまさらという感じであるさまという意味と、(2)全く、全然、決してという意味しかないため、これらを結び付けても、「一層」という意味にはなりそうもありません(この解釈には、上記の理由のために全く自信がありません。古語に自信をお持ちの方にぜひ教えていただきたいと考えております。連絡先はこちら( pb6m-ogr@asahi-net.or.jp)ですのでよろしくお願いいたします)。

第二の理由は、「更なる」は典型的な「翻訳調」の表現だからだと思います。「更なる…」という表現を見ただけで、英語を勉強した読者なら、「further …(例えば、further economic growth、更なる経済成長)」という英文や、日本語にはない比較級を含んだ文章の手抜きの翻訳であることが推測できるためです。翻訳のプロの間では、このような翻訳は「英語が透けて見える」ために「拙訳」の典型とされているようです。

以上で「更なる」がなぜ教授の辞書にないかについての私の邪推の話は終わりですが、「翻訳の技法」では「翻訳者は黒衣に徹すること」が重要であると書かれています(103ページ)。黒衣に徹するためには、簡単で透明な表現を使う必要があります。この問題の残り二つの選択肢である、a.「あるいは」と b.「…における」も、それぞれ「または」と「…での」などという簡単な表現に置き換えることができるため、わかりやすい表現を目指す場合には避けた方がいい表現だと思います。このような表現の例にはほかに、「しかしながら」(しかしに言い換え可能)、「あいまって、相俟って」(…と…のために、ともに寄与して、重なってなどに言い換え可能)などがあります。

また、「更なる」、「あるいは」、「しかしながら」、「…における」という表現は、しゃべり言葉としてはそれほど違和感はないと思いますが、書き言葉として使うと間延びしてしまう恐れがあるという特徴のある言葉ではないかと思います。文章を書くときには、話し言葉とは違った表現法を用いる方がいい場合が結構あるというのが、私の実感です。

「更なる」に関する飛田教授ご自身によるコメント

「更なる」はなぜ飛田教授の辞書にないのかについて、飛田教授に直接手紙でお伺いしたところ、なんとご返事をいただくことができました。先生のお許しを得て、そのお手紙の一部を以下に引用させていただきます(98年3月16日、文中の強調マークは私がつけました)。

「私は言葉に関しては保守的な規範派ではありませんから、もし圧倒的多数の人が「更なる」を書き言葉としても使う日が来れば、それを受け入れるにやぶさかではございません。(「見れる」、「起きれる」などについても同様です.いまはまだ、書き言葉としてはそれらに抵抗を感じますが、それほど強い抵抗ではなくなっています.)私自身はきわめて単純に、「更なる」は60年代や70年代の若者(特に全共闘に属する大学生)が頻繁に―−あまりにも頻繁に−−使っていた縮約語のひとつだと思います.歩行者天国を「ホコテン」とするような類いで、私はこれらを「無精語」と勝手に呼んでいます。ほんとうならば、「さらに大きな [進んだ;テンポの速い;大胆な;etc]改革」などと言うべきところを、「更なる改革」で片付けてしまう学生のスマートさに、一面では感心するのですが、その反面、言葉をあまりにも安易に圧縮してしまう無精さにはうさん臭いものを感じました.ものの考え方そのものが安直で無責任なものに堕する危険を直観したのです.その辺りは私にも多少規範派的な要素がある、と認めざるを得ません.
ホ−ムペ−ジにありましたとおり、当時の若者がfurtherという形容詞の直訳として「更なる」という表現を思い付いた可能性はかなり大きいでしょう。それに加えて、「大いに」→「大いなる」の変化を模倣したという可能性もあります。が、その「大いなる」を含めて、「遥かなる」、「更なる」などという大仰な疑似文語的表現は力みすぎていて、なにかのスロ−ガンには向いていても、美しい口語にはふさわしくない、と私には思えるのです。現段階では、少なくとも翻訳者はこういう語を使わないほうがよいでしょう。おそらく作家も、当分これを使わないと思います。ただし、ジャ−ナリストなどが使う可能性はありますね。言葉には次第に単純化する傾向があるようですから、いま私が<無精>だと見ているものも、案外、言語変化の大原則に従っていると言えるのかもしれません。当分のあいだ「更なる」の動きを注意してみていきましょう。」

「更なる」という一つの言葉にもいろいろな背景があって、昭和22年生まれの私と同じ全共闘世代が頻繁に使っていたことや、これがものの考え方そのものとも関係しているとは知りませんでした。類似の表現に「大いなる」、「遥かなる」というのがあるというのも知りませんでした。こうしてみると、昔の洋画の題名で使われた表現が生き残っているという感じもします。先生のおっしゃる通りこれらは「擬似文語的表現」という感じがぴったりすると思いました。

先生はちょうど定年退職されるところで、最終講義も終えられたそうです。ご多忙中のところ、お返事をいただき、本当にありがとうございました(98年2月8日)。

(99年4月14日追記)問題32に取り上げましたように、98年に改訂された「広辞苑」第5版に、「さらなる」という項目が追加されました。ただ、広辞苑に載ったからといって、使う気はしません。これも私が年を取ったからかもしれません。

(2011年1月21日追記)野口悠紀雄氏はその著書『「超」文章法』(中公新書、中央公論新社刊)で「さらなる」は誤用であると断言しています。詳しくは問題66(日本語)答えをご参照ください。

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