問題66(日本語)の答え・・・村上春樹氏が使ったことがないと断言しているのは、(p, 鑑[かんが]みる)です。
「鑑みる」とは広辞苑によれば、「先例に照らして考える。他とくらべあわせて考える」という意味で、「時局に鑑みて生産の増大をはかる」という例文が挙げられていました。ここで出てきた「照らす」という言葉は、再び広辞苑によれば、「物に光をあてる」という意味の他に、「見比べる、照らし合わせる」という意味があり、「史実に照らして考える」という例が載っていました。
それなりの立場の人が、この表現を使うのには、それほど違和感がありません。例えば、日本弁護士連合会会長の本林 徹氏が、同連合会を代表して発表した、「公益通報者保護制度に関する会長声明」(2003年4月30日付)のような公式な文章でこの言葉が使われる場合には、自然な用法という印象を受けます(多くの、お役人の文章や法律文同様、古めかしい表現であることは否定できませんが)。下に一部だけを引用させていただきます。
『・・・・昨今の企業不祥事の発覚と、その後の状況の改善にマスコミが果たした役割に鑑みると、本制度の導入がマスメディアの取材活動の妨げにならないよう十分留意し、真に消費者利益の擁護を図る制度設計とすべきである。』
ところが、「鑑みる」、「照らす」という二つの言葉は、一般庶民ではとても持ち合わすことができない、高度な判断力を備えた権威者や権力者が、高い視点から何かに判断を下しているという感じを与えると思います。そのため、これらの言葉を普通の人が使うと、ちょっとお高く止まっている、つまり、自分だけが偉いという態度をとっているというか、くだけた言い方で言えば「偉そうにしている」という印象を与えると思います。さらに、「考える」とか「考慮する」と言えば済むことを、わざわざ「鑑みる」とか「照らす」という、権威主義的な言葉を使うと、内容の乏しい文章を、使う言葉によって権威付けようという下心があるという印象を与えかねないと思います。
この辺が、言語感覚の鋭い村上春樹氏が「鑑みる」という言葉を使わなかったと断言できた理由ではないかと勝手に推測しています。また、「鑑みる」も「照らす」も、ほとんどの場合「考える」などの簡単な言葉を使って言い換えることができるため、この二つの言葉は使わない方がいいと私も考えています。
野口悠紀雄氏が使わない言葉
これで正解についての説明はおしまいです。余談になりますが、正解以外の選択肢はすべて、問題6(経済史)でご登場いただいた、経済学者の野口悠紀雄氏が、『「超」文章法』(中公新書、中央公論新社刊)で「避けたい表現」(213ページ以下)としている言葉です。
(a. 思いやり、b. さわやか、 c. 達人、 d. しなやか、 e. やさしい、 f. 人間性(注1))・・・これら六つの言葉は、【1】乱用されてイメージが低下した表現であるため避けた方がいいとされています。同書の213ページには次のように指摘されています。
これらは、もともとは美しい日本語だった。しかし、こうした表現を臆面[おくめん:気おくれした顔色・様子]もなく使う人々に乱用されたために、言葉のイメージが低下した。いまや、陳腐としか言いようがない。私は、こうした表現を平気で使う人を無神経だと思う。
(g. 生きざま、h. 手垢(あか)のついた、 i. せめぎあい、 j. ふれあい、 k. 共生)・・・これら五つの言葉は、【4】不快感を与える表現とされています。残念ながら、「手垢のついた」という表現はこのホームページの別の場所で使っています。この表現が使われていた本があったためですが、考えてみれば、古くさい表現であることは確かです。今後注意します。
同書の215ページには次のように述べられています。
・「生きざま」は「死にざま」からの転用で本来は誤用である。
・「手垢のついた」は「使い古された」とすればよいものを、なぜそうしないのだろう。
・「ふれあい」は、地方公共団体御用達用語だが、妙に湿った手で肌をなでられる気がして、ぞっとする。
・「共生」は、言葉の問題もさることながら、その裏にある生活態度に賛同できない。私は、共存や協調は必要だと思うが、「共生」はご免こうむりたい。相手に依存しないと生きられないのでは困る。自立した個人を前提としたうえで、それらの人々が自由な選択に基づいて協力しうる社会を望みたい。
残念ながら、「せめぎあい」 についてのコメントはありませんでした。改訂される際には、せめぎあいについてもコメントしていただきたいものです。
(m. 小生)・・・「小生」に限らず、英語なら "I" か "YOU" と言えば済むところを、日本語の場合、いろいろと細かい神経を使う必要があるようです。小生以外にも、(村上春樹氏も使っている)「僕」という表記は使うべきでないと三島由紀夫が書いているという話など、いろいろと参考になる話がこの本には載っていました。216ページの「小生と言うのはやめよう」から引用させていただきます。
「小生」は辞書では「謙称」[けんしょう:けんそんした言い方]となっているが、実際には目下の人にあてた書簡文で使う表現だ。印刷される文書で使ってよい表現ではない。雑誌のエッセイなどで使っている人がいるが、傲慢[ごうまん]に聞こえる。いまどき「拙者」[せっしゃ]と書く人はいないだろうが、ニュアンスとしては同じようなものである。
(n. さらなる)・・・220ページの『追放できなかった「さらなる」』で、野口氏は、「これは誤用である」と断言してさらに次のように指摘されています。
文章中にこの表現がでてくると、私はその文章の内容全体を信用しない。言葉に対して敏感でない人が書いている証拠だからである。・・・私がこの言葉を耐えられなく思うのは、妙に権威主義的な臭いがあるからだ。権威主義的であるにもかかわらず間違った言葉遣いをしているのは、まことに滑稽だ。下品な喩え[たとえ:例え話]で申し訳ないが(相手が下品なのだからご容赦いただきたい)、「髭[ひげ]を蓄えた[そらずにはやしている]警官が威張り散らしているのだが、ズボンがずり落ちている」という感じなのだ。「日本語ブーム」もよいが、まず必要なのは、こうした妙な言葉の追放だろう。
私も全く同感です。「さらなる」については、問題13(日本語)、問題13の回答の最後にある、有名な翻訳家の飛田茂雄中央大学総合政策学部教授(当時)の『「更なる」に関する飛田教授ご自身によるコメント』、問題32(日本語)もご参照ください。(2003年8月17日)。
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(注1)人間性という言葉について・・・人間性という言葉は、普通は人間としての本性、人間らしさという意味になるため、使ってもあまり問題はないと思いますが、この言葉を文部科学省が使うと、「(お上に逆らうことのない)実直な精神」という意味になるようです。野口先生が問題視しているのは、このような"特殊な"用法のことではないかと思います。文部科学省の「21世紀教育新生プラン」(2001年1月)では「人間性豊かな日本人を育成する」ことが目的の一つとされていますが、その実体は戦前の「修身」の国定教科書の復活ともいえる、道徳教育の教科書「心のノート」の全国の学校への強制配布をはじめとする、道徳教育の強化ということになります。
文部科学省が導入はしたものの、大幅な修正を迫られている゛ゆとり教育゛について、教育課程審議会(注2)前会長の三浦朱門氏は、つぎのようなことを言っているそうです。
「できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。・・・・それが、゛ゆとり教育゛の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ」(斎藤貴男『機会不平等』文芸春秋、40-41ページ、ただし、この文章は暉俊淑子(てるおかいつこ)著『豊かさの条件』(岩波新書)91ページから孫引きさせていただきました)
つまり、゛ゆとり教育゛とは普通の生徒を切り捨てる教育を意味するようです。これを人間性教育と呼べるかどうか、文部科学省の言語感覚を疑うところです。教育を受ける子供や父兄の意向を全く無視した、このような独善的かつ時代錯誤的な基本認識では、公的教育はますます空洞化せざるを得ないのではないでしょうか。金持ちの子供は、自分の将来に必要な知識が得られる私立学校に通うことができる一方で、普通の子供は、まともな教育を受けることができないだけでなく、「いじめ」があっても教師が見て見ぬふりをするため、「いじめ問題」が一層深刻化しているうえ、戦前同様の神国思想を押しつけられるというおまけまで付く、公立学校に通わざるを得ないという不平等にますます拍車がかかるのではないでしょうか。私は、私立学校、塾の業界から自民党に相当な金が流れているため、公的教育が意図的に空洞化されているのではないかとみています。
日本の教育が抱える問題点については、問題45(教育)、問題46(教育)もご参照ください。
(注2)教育課程審議会・・・文部大臣への諮問機関ということになっていますが、その実態は、お役人が選んだイエスマン、イエスウーマン揃いの学者・知識人が、お役人の書いたシナリオにお墨付きを与えて、権威付けするための機関のようです。この機能は、その他の審議会でも同じようです。
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