問題38(政治)顔に貼り付いたような笑顔や不自然なはしゃぎ方の下に、その素顔を垣間見てしまった外国人には、この国は「(c. うちひしがれた)人々の国」だとわかるが正解です(99年7月27日)。

この文章は1962年に来日して以来、日本を拠点にして活動しているオランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社1994年刊)の本文2ページ目(14ページ)に出ていたものです。

「顔に貼り付いたような笑顔」というのは、東洋人に特有のオリエンタル・スマイルに近いと思いますが、日本人の場合、東南アジア、中国、大韓民国の人々よりも、必要以上に笑顔を作ろうとしているような気がします。この感じは、例えばタイ料理店のタイ人店員、中華料理店の中国人店員、韓国料理店の韓国人店員と純粋な日本料理店の日本人店員を比較してみても分かります。個人的な感じとしては、日本人の笑顔は、オリエンタル・スマイルよりも、かなり「堅い」笑顔で、「営業的笑顔」が顔に固着したという感じの人が多いような気がします。「不自然なはしゃぎ方」の方は、一杯飲み屋に行けば、そこらじゅうで見ることができます。「うちひしがれる」とは、新明解国語辞典によると、「相次ぐ生活の苦しみや予期せぬ不幸な出来事によって、これから先、生きて行く意欲を全く失ってしまうほど深い悲しみや絶望感に襲われる」ことだそうです。(「うちひしがれる」を英語ではどのように表現しているのかと思って、東京・日本橋の丸善まで英語版を探しに行ったのですが、丸善の店員の方によると、この本は日本語で書き下ろされたものであるために、英語版は出ていないそうです)

ウォルフレン氏は、ほとんどの日本人は近代国家の構成員である市民(シチズン、フランス革命時のシトワイアン・シトワイエンヌ)としての役割をほぼ完全に放棄しており、この状態が日本人の「素顔」であり、うちひしがれた状態であるとみなしているようです。「市民とは政治的な主体」であり、また「つねに、社会における自分たちに運命について理解を深めようと努める」、「ときに不正に対して憤り(いきどおり)、自分でなんとかしたいと思い立って、社会問題にみずから深くかかわっていく」ものであり、「消極性は市民の立場(シチズンシップ)の死を意味する」(同書18ページ)と同氏は指摘しています。

ほとんどに日本人は、政治は政治家にまかせて、日々の生活の向上にエネルギーの大半を注ぐのが当たり前で、この判断は自分自身によるもので、うちひしがれているためではないと思うでしょう。ウォルフレン氏は、このような状態は、日本国民が自主的に選択したものではなく、日本社会の根本的なゆがみが原因になっていると主張しています。同氏が日本社会の根本的なゆがみと指摘しているのは、(1)正確な情報が不足して、「うそ」(同氏は「偽りのリアリティー」と表現しています)がまかり通っていること、(2)企業中心主義の横行、(3)官僚独裁体制、(4)国民のあきらめの心理などです。

(1)正確な情報が不足して、「うそ」がまかり通っていること

同書の25ページには次のような指摘があります。「日本の人たちは官僚からしばしば荒唐無稽(むけい)のでたらめな話しをきかされる。これは官僚が面子(メンツ)を守りたいと思っていたり、正確な情報が世間に流れると実現のチャンスまったくなくなるような計画を強行したいと思っていたりするからだ」

国民の側では、明らかに「うそ」だと分かっていても、情報は官僚が握っており、しかも彼らには、訴訟されたり、国会で質問されたりしない限り、最終的な説明責任(アカウンタビリティー)というものがない(88ページ)ため、国民の側には反論のしようがありません。

最近の例では、96年春に、当時の大蔵省金融証券検査官室長が、長銀の大野木元頭取からの依頼を受けて、約1兆円の回収不能債権を2,000億円に減額査定していたことが判明しています(『読売新聞』99年6月11日付朝刊)。つまり、96年当時大蔵省から発表された長銀の不良債権額は、実際の額よりも8,000億円も少ない「うそ」の金額だったことになります。長銀が、破たんしたのは98年10月で、最近では98年3月期決算が粉飾決算であった疑いが深まっています。ところが、少なくてもその2年前から、大蔵省公認で粉飾決算まがいの決算操作が、国民の目の届かないところで行われてきたようです。

長銀の場合は預金は全額保護されましたが、もし不良債権の実態がもっと早く明らかにされていれば、早めに不良債権の処理が行われたとみられ、被害額(つまり長銀の不良債権処理に投入された公的資金の額、確か4兆円だったと思います)が小さくて済んだかもしれません。

94年に書かれた同書にも次のような指摘があります。「日本で大蔵省の役人が権力をにぎりつづけていられるのは、彼らがほかのだれよりも情報を握っているからだ。彼らは重要情報を独占しており、・・・・・・どの大銀行が事実上倒産同然の経営状態にあるかといった情報を握っている。こうした企業は、独立の公認会計士に監査させれば、とうの昔の存在しなくなって当然だったはずだ」(203ページ)。

ここで、「独立の公認会計士」という言葉が出てきましたが、これは企業や大蔵省から独立したという意味で、法律に基づいて自己の信念に従って企業の会計処理を監査する会計士ということだと思います。先進国では当たり前になっている、公認会計士の独立性が、日本では確立していないと同氏は考えているようです。実際、山一証券や三田工業の倒産の場合のように、倒産してはじめて、公認会計士の監査に問題があることが分かるケースが多いようです。

人々をあえて無知に保つ伝統は、徳川幕府の公式の政策に起源を持つとウォルフレン氏は指摘しています。「民(たみ)は知しらしむべからず、依(よ)らしむべし」(人民には情報を与えるな、ただお上の意向に従わせろ)ということばにその政策が要約されているようです(22ページ)。

明治政府は、近代国家建設のための教育を普及することが必要であると同時に、平民のなかの頭のいい人たちが真実を知ることになった場合に政権に対して不満を持つようになるのは困るという事情から、人々を「普通の人」と「文化人」という二つのグループに分けるという「名案」を考え付いたようです。専門家、知識人、研究者などから構成される「文化人」に好きなことを考え、仲間内でその考えを議論する比較的大きな自由が与えられたそうです。ただ、「文化人」も1925年の「治安維持法」の制定で、国を批判できなくなりました(22ページ)。

「人々を二つのグループに分ける伝統は続いている。一般の人々はあい変わらず無知のまま保たれ、幻想だけがばらまかれているが、それは日本では秘密主義が、いまなお権力行使の重要な技法だからである」と同氏は指摘しています(23ページ)。日本の支配階級は、政治家、官僚、知識人、編集者などの高い地位にあるさまざまな人々から構成され、これらの人々が同盟関係にあるようです。「この支配階級の人々は情報に精通している・・・彼らは、現実のタテマエ論的説明で満足するほかない他の大多数の日本人から、知識の量という点で分離されている。こうして「知る者」と政治的に無知な者(イノセント)との古くからの分離が今なお続いている」と同氏は述べています。

「無知な人々」を無知な状態にあることで満足させるのに重要な役割を演じているのが、支配階級に含まれている新聞をはじめとする、報道機関のようです。「日本のたいていの新聞は、新聞の第一の使命は市民に情報を提供することだなどとは思っていない。だから新聞は「純朴」だが政治的には無知な日本人の層を存続させるのに手を貸している。メディアは、日本では政治・経済・生活上の「タテマエ」という表向きのリアリティを管理するための、つゆ払いの役目を果たしている」ようです(24ページ)。

報道機関と官庁の持たれ合いに関係して問題になるのが、「記者クラブ」制度ですが、これについては問題27(報道)の解答をご参照ください。

また、「なにかやっかいな事件が起こり、日本の根本的問題について「国民的議論」が巻き起こったとき、そこから生まれた議論は、新聞によって、官僚を困らせないような形に濾過(ろか)される。「イジメ」問題も、そうした多くの事例の一つだった。新聞「世論」のおかげで文部省は窮地を脱し、子育てのまずさをそれとなく非難されたのは、もっぱら親たちであった」(303ページ)ということになるようです

同書の203ページには、さらに次のように指摘されています。『日本経済新聞』は「バブル経済」を演出した高級官僚専属の広報誌の役割を担うことになった。日本の経済評論家や大学の経済学者は、ほとんど日経というアンプに接続されたスピーカーといえるだろう(引用者注:演奏者はお役人ということになります)。彼らの大半の者はおそらくそれ以上のことは知らないと思う。なかには、偽りのリアリティ(引用者注:引用者が「うそ」と言い換えたことば)についてよく知っているものもいるが、もし彼らが私がこの本で公(おおやけ)にしている種類の分析を堂々と発表すれば、まっとうな機関で仕事を続けられなくなるだろう」

(2)企業中心主義の横行

戦後の日本の経済発展は目覚ましく、日本企業が成長を支えたというのは、誰もが認める点ですが、いまだに企業中心主義が生きいて、これが「豊かな国の貧しい国民」を生み出す原因の一つとなっているようです。

「物やサービスを供給してお金をかせぐという機能は、日本の会社も外国の会社も同じである。しかし、・・・・・・日本の大企業には、もしかするとそれより重要かもしれない、社会を統制するという機能がある。日本の大企業は、欧米の企業がしようと思っても決してできない方法で、人々の間の秩序を保っている」(58ページ)と同氏は指摘しています。

「思考、時間、情動――その多くを、サラリーマンは会社に捧げるように強いられる。それは当然多くの結果をもたらす。なかでも重大な結果の一つは、サラリーマンが会社以外のことに自分を強く一体化させる時間も気力もなくなってしまうことだ。ときには、自分の家族にすら自分をしっかりと一体化できない。だから、「サラリーマンは会社と結婚している」と言われてきたわけである」(57ページ)。

日本企業では、社員の政治活動は、それが基本的人権に基づくものであっても、歓迎されることはなく、出世のためには致命傷にもなりなねない(58ページ)ということは、サラリーマンでは誰でも知っていると思われます。

日本にしっかりとした労働市場(転職を促進する制度と組織)がないことも、サラリーマンの選択の幅を狭めているようです。「大部分のサラリーマンがよりよい給料や労働条件を求めて転職できるようになれば、日本の雇用関係は根本的に変わるはずだ。しかし現状では、日本のサラリーマンには、みずからを会社にしっかりと一体化させて生きるより道がない。ほかの国でなら家庭や親友のためにだけ捧げられる心の中身まで、会社に差しださざるをえないのだ」(57ページ)と同氏は指摘しています。

つまり、日本のサラリーマンの「会社への忠誠心」や「愛社精神」が強いと言われるのは、日本人の精神構造のためではなく、単にサラリーマンには、表向き会社に忠誠心がある「ふり」をする以外に選択の余地がないためであるということになります。

労働というのは、芸術家など一部の例外的に幸運な場合を除いて、すべて自分の人生の「時間」を売ることであり、「時間」を売ること自体が人生の目的であるなどと考えるのは、上記の例外的な場合以外では、ばかげたことです。人生の「時間」のうちかなりの部分を、家族のためや、自分が必要と考えることのために残しておかなければ、有意義な人生とは言えないのではないでしょうか。

また、欧米の労働組合が業種別であるのに対して、日本の労働組合は「企業内組合」が中心である点も、企業中心主義を助長しているようです。「企業内組合」の幹部になるのは出世の早道であるなどということは、サラリーマンを1年もやっていれば、誰の目にも明らかとなります。これは企業内組合は、企業経営管理組織の重要な一角を占めており、労働者を支援するよりも、労働者を管理するために機能していることを示していると考えられます。

ウォルフレン氏によれば、「1940年に日本の労働者の3分の2を組織し、6万を超える支部を擁するにいたった愛国的産業組合、「産業報国会」・・・・が、有名な日本の企業内組合のさきがけであったことは、日本史の研究家の広く認めるところである」としています。また同氏によれば、「日本生産性本部(最近「社会経済生産性本部」と名を変えた)が主導してきた、(労働者と経営者が「和」の精神を尊重して会社の業績を伸ばそうとする)「労使協調路線」は、国全体が一種の家庭だと考え、会社をそのなかでの特別な一家族だとみなす戦前の考え方を、戦後の企業経営に持ち込んだものだそうです。この考え方は、戦前の「国体イデオロギー(天皇統治の正当性または日本国の優秀性を唱える思想で、国粋主義に近い)」を支える「下部イデオロギー」として、重要な役割を果たしていたそうです(56―57ページ)。

(3)官僚独裁体制

官僚が情報を支配していることが、問題であるという点については、すでに触れましたが。官僚支配を強化しているもう一つの重要な要因は、行政指導による企業の支配と、これを利用した「天下り」の慣行です。

行政指導とは、元内閣法制局長官の林修三氏の定義によると「一般には、行政機関が・・・・・・法令の根拠に基づかないで、行政機関として、こうしたい、ありたいと希望し願望するところを、相手方が実行するように働きかけること」だそうです(『行政指導』、新藤宗幸著、岩波新書、23ページ)。法律の根拠に基づかないために、官僚の裁量によって、「勧告」、「指導」、「指示」、「要望」、「助言」、「訓示」、「警告」などと名付けられた、いろいろな「指導」が行われるようです。企業は、法律的には、これに逆らうこともできるにもかかわらず、後からほかのことで、「しっぺ返し」されるのが怖いのでしぶしぶ、指導を受け入れることになることが多いようです。また、企業は、営業推進上有利であるという理由だけでなく、裁量でどんな「指導」をされるかが分からないため、「天下り」も受け入れざるを得ないという面もあるようです。

不良債権問題や証券スキャンダルなど、大蔵省の関係した事件では、ほとんどの場合、「行政指導」による裁量行政が問題を大きくしたという側面があるようです。野村証券の田淵節也元会長は、91年に起こった証券スキャンダル【証券会社は、大手顧客の損失は補填する一方、1億円以下の顧客を「ドブ」と呼んでいた(『行政指導』、4ページ)】で追求が進むなかで「ホディーにMOF(大蔵省)と染め抜いたパトカーに先導されて、証券会社の車の列が交差点をノンストップで走りすぎた。ところが、いつの間にかパトカーは消え、右往左往していると、別のパトカーがやって来て、『ご用だ!道路交通法違反で逮捕する』となった」(『行政指導』、90ページ)と語ったそうです。

不良債権問題や証券スキャンダルの例から分かるように、行政指導は、内密で行われることも多いとみられるため、問題が発生した場合に、大蔵省と企業との間で「言った、言わない」で論争が起こることになり、多くの場合、企業幹部が逮捕されて、責任を取らされる一方で、お役人の方は責任を免れることができるという点も問題だと思います。

(4)国民のあきらめの心理

上の例からも分かるように、日本では、法律の運用が官僚の裁量に大きく左右されているため、企業や国民は、なにを基準にして物事を判断したらいいのかが分からない状態にあると言えます。これが、あきらめの心理につながり、物事を解決するのに、人脈に頼るのが最善であるという考えにつながっているようです。サラリーマンが、仕事以上に人脈作りに熱心であるのは、この辺にも原因があるのかも知れません。

法律が守られていないことを示す例としては、日本のすべての法律の上に立つ日本国憲法で、第9条(戦争の放棄)が有名無実化しているのは誰の目にも明らかです。さらにウォルフレン氏は、「第15条(公務員の選定・罷免権、全体の奉仕者性、ほか)、第20条(信教の自由、政教分離)、第38条(不利益供述の不強要、自白の証拠能力)、第41条(国会の地位、立法権)、第65条(行政権と内閣)、第76条(裁判官の独立、ほか)、第98条(憲法の最高法規性、ほか)の各条はふだんは完全に無視されているようだ」(104ページ)と指摘しています。

また、同氏によれば、民主主義の基本とも言える三権分立も確立されていないことになるようです。「日本の司法システムも結局のところ官僚たちの手中にあるということだ。日本の司法制度の最高機関である最高裁判所は、実質的に同事務総局に支配されており、その事務総局はまた法務省の保守的な高官に支配されている」(103ページ)そうです。

さらに、「日本では、歴史的にも、法が権力者自身の行動を規制する役目を果たしたことがまったくない」(102ページ)とも指摘しています。

あきらめの心理の原因となっているもう一つの要因が「和」の精神といえます。聖徳太子が十七条憲法で「和」を強調して以来、日本人は政治的に厳しく抑圧されてきたため、「和」を装うしか道がなかったというのがウォルフレン氏の見方で、「現在でも日本の社会では真の対立はすぐに表面下に押し込められるので、対立が対立として適切に処理されない」(259ページ)という傾向があるようです。

その結果として、日本人の生活は、ハンガリー、ポーランド、チェコなどの東欧諸国がかつて経験したのに比べても、はるかに強く、特定の政治的イデオロギーに支配されている(政治化されている)と、これら東欧諸国出身の人々は語っているそうです(298ページ)。

また、日本では民衆の力によって、政治が変わったという経験もないようです。明治維新は武士階級の一部がリードしましたし、戦後の民主主義も米国の指導の下に導入されたもので、民衆が勝ち取ったものではないためです。

日本の政治のリアリティに最も深い関心を寄せた研究者で、偉大な歴史家であったE.H.ノーマン氏は次のように述べているそうです。

「日本の遅咲きの封建主義の過酷な抑圧は、現代の日本に精神的かつ社会的な深い傷痕(しょうこん)を残しており、その一見平穏かつ整然たる外観の内側、底知れぬ暗部に、暴力と、病的興奮(ヒステイアリア)と、獣性(じゅうせい)が鬱積(うっせき)している」(Origins of the Modern Japanese, Random House、 1975)


最後にウォルフレン氏の怖い予言を同書から引用させていただきます(342ページ)

もし、55年体制に取って代わるのが、野党と一応言われている党が集まってできた「巨大な自民党」のようなもので、はっきりと別の政策原理と政策目標を掲げるものはもしかして共産党だけ、ということになれば、それは悲惨なことになる。それは、1930年の政治エリートの有力者たちが「大政翼賛会」――党派的活動が完全に排除された政党システム――をつくったとき、胸に描いていた図式と同じものである。

政治家をただ集めただけのこのような大集団は、官僚たちとの一蓮托生(いちれんたくしょう、善くても悪くても行動・運命をともにすること)の共生関係のなかに生きるだろう。そうなれば、日本の必要な大改修に向けた国民的運動はもう起こりにくい。

しかし、このような大結集は必ず起こるということではなく、そして日本の人々が政治的に十分に行動的ならば、防げることである。


(99年7月27日)

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