問題76(食文化)の答え・・・c. 子羊(agneau、ラム)が正解です。同書の91-92ページには、次のように書かれています。

「日本では牛肉はごちそうだ。だが、フランスでは、牛肉は日常的な料理だ。ビフテキは、日本のカツ丼にあたると思えばよい。ローストビーフは、レストラン料理というよりは、家庭料理だ。フランス人にとっては、ごちそうは、子羊の料理である。子羊の脚(
ジゴ・ダニョー、gigot d'agneau、ジゴ gigot という単語は一語で「羊のもも肉」という意味になります)、これこそ、フランス人のよだれをたらす、ごちそうなのだ・・・・フランスで食べる羊は非常に小型の羊で、毛をとるためでなく、食用に育てられたものだ。しかも、子羊とはまだ草を食わないうちの、生まれたばかりのものだ。草を食べ始めたら羊で、もはや子羊ではない・・・」

特に、南フランスのレ・ボー(Les BAUX-DE-PROVENCE)にあるボーマニエールというレストラン(Oustau de Baumaniere、http://www.oustaudebaumaniere.com/)のジゴ・ダニョーは最高で、この料理を食べたかったら、パリから1,000キロ以上も離れた、山の中にポツンと立った、そのレストランまで行かなければならないそうです(33ページに載っていた写真を左に転載させていただきました)。上記ホームページのメニューには、"Gigot d'agneau de lait en croute" (ジゴ・ダニョー・ド・レ・アン・クルート、価格は 92ユーロ、1ユーロ 140円で換算すると約12,900円)として載っています。"agneau de lait"とは、乳(lait)だけで育った子羊のことで、"en croute"はパイ皮で包んで焼いたという意味だそうです。

〔F1レーサーのジャン・アレジ氏と結婚して、レ・ボーの北20kmに位置する、アビニオン郊外にシャトー(大きな館の周りにぶどう園が広がる豪華邸宅兼ワイナリー)をお持ちの後藤久美子さんが先日テレビに登場されましたが、そのときに訪問したのがこのレストランです。〕

実は、わたしは最近まで、子羊の肉を食べたことがなかった(または、食べたことを忘れていたかもしれない)のですが、先日、何年かぶりに、東京の地下鉄丸ノ内線・四谷三丁目駅の近くの、「パサ゜パ」( Pas a Pas、フランス語で一歩ずつという意味です、 http://www.hanako-net.com/omise/detail.jsp?id=61808201 http://gourmet.yahoo.co.jp/gourmet/restaurant/Kanto/Tokyo/guide/0201/M0013001902.html)というフレンチ・レストランで夕食をとったときに、2,500円のディナー・コース(前菜、主菜、デザートをリストから選択できます)のメニューの中に、「子羊のトマト煮込み」という料理があるのを発見して、試してみました。この料理は、なかなかのおいしさでした。また、会社のグルメの女性に、子羊の話をしたところ、東京でもKINOKUNIYA(紀伊国屋)などの高級食品スーパーに行くと、スライスにした子羊の肉(ただし、大体オーストラリア産だそうです)を売っているそうです。

食文化先進国であるフランスで一番珍重されている肉の話はこれでおしまいです。ところで、何を一番おいしい食べ物と感じるかは、人それぞれでしょうし、国や地域でずいぶん違っているようです。北海道出身のわたしは、東京に来たばかりのころに、日本橋生まれの会社の上司から、「君が一番好きな食べ物は?」と聞かれ、「アスパラのバターいためです」と答えたところ、「ずいぶんバタくさい(もともとはバターくさいという意味でしたが、普通は西洋風という意味で使われます)ものが好きだね」と言われました。わたしは、「バタくさい」という言葉はそういう意味だったのかと感心し、先輩の語彙の豊富さと用法の確かさに大いに敬服した次第です。そこで、「先輩は何がお好きなんですか?」とお聞きしたところ、「寿司さ」というお答えでした。洋風の食べ物が好きだったわたしは、世の中に寿司が一番好きな人がいるのかと驚いたと記憶しています。

世の中にはいろいろな食べ物があって、人の好みもさまざまなようですが、自分の好みが最高だと信じて、それを他人に押しつけたがる人がいます。「食通」を自認する人の多くは、「わたしはこれが好きだ」と言う代わりに、「このレストランの○○○は最高だ」と言ったりするのではないかと感じます。食べることを「食す(しょくす)」、おいしいことを「味がいい」、材料のことを「食材」、うまく料理することを、「素材の持ち味を生かす」などと表現する人は、自称「食通」である可能性が強いようです。なだ いなだ氏は、『権力と権威』(岩波新書、1974年初版発行)で、そんな連中の言うことを信じるのはあまり賢明とは言えないと言っていますので、その部分をご紹介します(183-186ページ、この本は、なだ氏と高校生のA君との対話形式となっています)。

〔なだ氏〕・・・・人間のやることには、理で説きようのない〔引用者追記、以下同様:論理的に説明できない〕こともたくさんあるのさ。・・・〔むしろ〕そっちの方が多いくらいなんだ。たとえば、好みなんてものはどうだね。もちろん、理屈をつけて、これこれだから好きだ、なんていうこともあるけれど、理屈を聞いて好きになるなんてわけには、いかないんだ。・・・料理だってそうだよ。食通が、あそこはおいしいというところが、ほんとうにおいしいかと〔疑問に〕思う時もある。だから、高級料理店などといって、〔味ではなく〕高級のイメージでおいしく思わせようとすることも出てくるのさ。好みは人間によりけりだ。それなのに、ものさしではかって比較したいとなると、そうしたもの〔好みなど〕は別のものさしではかられがちなのさ。有名さだとか、ポピュラリティ〔人気〕だとかでね。みんな権威と結びつくのだけれど。
〔A君〕 じゃ、そうした場合は、どうすればいいんですか。・・・・
〔なだ氏〕できないことは、やらなけりゃいいのさ。たがいの好みを認めればね。自分の好みを他人におまえも好めと、押しつけなければいいのさ。
〔A君〕じゃ、知らないことはどうなんですか。人間は知らないことも多いので、理で説得できないといわれたでしょう。
〔なだ氏〕いったよ。その場合も、知らないことは知らないでいいのさ。誰か知っているにちがいないと考えるところから、権威が必要になってくる。たとえば、専門家と呼ばれる人は、ぼくたちより多くのことを知っている人間ではあるが、すべてを知っている人間ではない。だから、知らないことの理まで、ぼくたちに納得させることはできないのさ。それから先は、私にも分からない、がもちろん君にもわからないと、そこであきらめねばならんのさ。

引用はここまでですが、「食通」を自認する人の多くは、食べ物以外についても、自分の考えが正しく、ほかの考え方があるということが理解できない場合が多いのではないがという印象をわたしは持っています。これら食通(だけでなく、食べ物の好き嫌いのある人の多く)の困った点は、「成長」するという点です。普通成長というと、世の中をより広く見ることができるようになることだと思いますが、「食通」の場合には、味を極めるなどと言って、ますます特定の考え方に凝り固まる傾向があるため、だんだん頑固になり、手が付けられなくなっていきます。独断的な考え方が食べ物だけにとどまっているうちは、まだいいのですが、多くの場合、ほかのことに対する見方でも同じことが起こる傾向があると思います。

そもそも、山登りで、やっとのことでたどり着いた山頂で、はるか遠くの山並みを眺めながら食べるおにぎりがおいしく感じられたり、飯ごう炊飯のカレーや野外のバーベキューが特においしく感じられるのは、食べ物自体の味だけでなく、食べる場所の環境、そのときの体の状態や気分がかなり影響しているためと考えられることから、誰にとっても例外なく最高においしい食べ物などというものはない、というのがわたしの基本的なスタンスです。そのため、わたしは「食通」の言うことはあまり信用しないことにしています。

〔余談ですが、宗教がらみの意図的な「食通」にも注意が必要です。誰も知らないような店を、突然紹介するというのが、この種の「食通」の特徴ですが、信者の経営するレストランの売り上げを「口コミ」で伸ばそうとしているようです。この種の宗教がらみのレストランを見分ける最善の方法は、順番待ちで行列しているのではない人が、いかにもさくら(にぎわっているという雰囲気を出すために、動員された関係者)という感じで、店の前に数人でたむろしているかどうかです。〕

なだ氏が『おしゃべりフランス料理考』以後は、グルメ関係の本を書かれていないようなのも、「食通」に対するこのような見方と関係しているのではないかと推測しています。食通同様、「味」によってではなく、「権威」によって人に食べ物やレストランを勧めるのがテレビです。会社の同僚の女性で、テレビ番組で紹介されたレストランを訪問するのを趣味にしているという人がいましたが、わたしの印象としては、テレビで紹介された店は、大体高いばかりで、それに見合う満足が得られたことはありませんでした。こういう店に行くのは、宣伝費を食べに行くと思った方がいいかもしれません。

日本のテレビは、食べ物関係の番組が多い

以前、NHKラジオの深夜番組、『ラジオ深夜便』のワールドネットワークというコーナーで面白いお話をお聞きしました。出演されていたのは、パリで旅行業を経営されている近藤忠彦氏でした。このコーナーは普段は、国際電話で海外在住の方がレポートするという趣向になっていますが、その回では久しぶりに日本に帰ってこられた近藤氏に対する、東京のスタジオでのインタビューが放送されていました。近藤氏が、久しぶりに日本に帰ってきて驚いたのは、テレビ番組に占める、食べ物関連の番組の多さだったそうです。フランスでは、ニュースや報道番組が中心で、食べ物の番組はあまりないのに対して、日本では、どのチャンネルを選んでも食べ物の番組ばかりなので驚いたとおっしゃっていました。

そう言われてみれば、レストラン訪問や料理の作り方の番組が非常に多いような気がします。もしそうだとすれば、これには二つの理由が考えられるのではないかと思います。第一に、テレビコマーシャルやテレビ番組は、視聴者の食欲を刺激する効果が大きいとみられる点です。わたしも、ビール、インスタント・コーヒー、カップ麺などのコマーシャルのあとに、無意識のうちに、宣伝された食品を飲んだり食べたりしたくなった経験をしてから、コマーシャルの力は恐ろしいと感じるようになりました。効果が大きいため、食品のコマーシャルや食品関係の番組が増えるのではないかと思います。

第二の理由として、日本人の食べ物に対する興味の強さが挙げられると思います。食べ歩きが趣味だとか、旅行の目的が旅先でおいしい物を食べることであるなどと言う人がよくいますが、これらの人々の興味の中心は食べることであるようです。確かに、食物、食習慣は文化の重要な一部分ですが、文学、絵画、彫刻、音楽など、文化のほかの側面に比べて、日本人の場合、食べることに対する興味が著しく大きいような気がします。イギリスの食べ物がおいしくないと言われるのは、イギリス人の興味が、政治、経済、文学、スポーツ、ガーデニングなどなどの、食べ物以外の方向を向いているためではないかと思います。アメリカ人のうちのかなりの人は、マクドナルドのハンバーガーとコカコーラの組み合わせが一番おいしいと思っているのではないかという印象さえ与えますが、これもそれほど食べ物に対するこだわりがないためではないかと思います。食文化先進国のフランスも、さめた面があって、高いものがおいしいのは当たり前であり、おいしいからと言って、(なだ氏がおっしゃっているような)金に糸目を付けずに、1000キロ以上もドライブして、南フランスのレストランまで行くなどという人はわたしの知っているフランス人にはいないと思います(大金持ちを知らないだけかも知れません)。ほとんどのフランス人の最大の関心事は、どうやって「カリテ・プリ」(rapport qualite-prix、品質と価格の関係、英語で言うと、コスト・パフォーマンス)のいい店を見つけるかということであって、おいしくなくても、値段に見合っていれば、当然ということのようです(問題11(マナー)でご紹介した、「パリ旅の雑学ノート、2冊目」16ページ)。

日本人は、世界中のうまい物をかき集めていることは、問題30(食文化)答えでも触れました。その分、食文化が発達しているとも言えますが、食べることは、文化ほかの側面に比べて、自分で調べたり、考えたりする必要があまりないのではないかと思います。しかも、好みは人それぞれであるため客観的な評価が難しい半面、何とでも言えるという特徴があると思います。つまり、最低限の場合、動物的、生理的な欲求を満たすことができれば、その文化を味わうことができることになります。そのため、もっと手間のかかる種類の文化に興味を持てないことが、「食」に対する、異様に肥大化した興味の背景にあるのような気がします。日本人は自分ひとりで論理的に考えるのが苦手であるため、調べたり、考えたりする必要があまりない食文化が発達し、食物関係の番組が多いのではないかとわたしは考えています。(
日本人は、自分ひとりで論理的に考えるのが苦手で、付和雷同することでしか安心感が得られないという特徴がある点や、この行動パターンを政治学者の丸山真男氏が『集団転向現象』と名付けたことについては、問題16(政治)答えでご紹介しました)。一つの番組の中で、何人もの出演者が、「おいしい顔」を競い合うのは異様な光景という気がしますし、そんな番組を見るのは、時間の無駄だと思います(2005年12月26日)。

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