ベルギーの三つの現代美術館と北フランスの都市めぐり

「『夢見る権利』とベルギー」の最後でご紹介したベルギー国内の三つの現代美術館を2003年6月に訪問しましたので、ご紹介させていただきます。その後、北フランスのいくつかの都市を車で回りましたので、その時に撮った写真もご紹介します。下の地図(『サミット ワールド アトラス』(帝国書院)からコピーさせていただきました)では、車で回ったルートを緑色の線で、鉄道で回ったルートは青線で示しました。また、わくで囲った部分をクリックすると関連する記事に移動します(この画面に戻るためには、ブラウザーの[戻る]ボタンをご利用ください)。

「マグリット美術館」はブリュッセルにありますが、「ジェームス・アンソールの家」は北海沿岸にあるヨーロッパ有数のリゾート地、オステンド(人口7万人)にあります。「ポール・デルヴォー美術館」は、やはり北海沿岸のフランス国境まであと数キロ(路面電車で15分)のところにある、シント・イデスバルドという小さな町にあります(下の地図をご参照ください)。

「マグリット美術館」と「ジェームス・アンソールの家」は画家が実際に住んでいた家を利用していますが、「ポール・デルヴォー美術館」のあるシント・シデスバルドは、本人が住んでいたわけではないようです。ポール・デルヴォーは、リエージュ州の出身で、ブリュッセルを活動の拠点としていたようですが、ベルギー観光局刊の『Travel Manual 2003』によれば、シント・イデスバルドをよく訪問し、ここで作品のインスピレーションを得たそうです。

北海沿岸の二つの町は、ブリュッセルから鉄道を利用して日帰りで訪問できます。ブリュッセルから、オステンドまでは、国営ベルギー鉄道(Bのマークがついていて、略称はSNCBです)のIC(Intercity、快速電車)で1時間15分かかります。オステンドからシント・イデスバルドまでは、路面電車(ベルギーでは「トラム/Tram」と呼ばれています)に乗って1時間で着きます[日帰りで訪問できることと、列車の所用時間などは、ベルギー観光局の宮下南緒子(みやした・なおこ)局長に教えていただきました。宮下様、一介の旅行者にも、ご親切に教えていただいてどうもありがとうございました]。

ただ、やはり日帰りではあわただしく、今度行く時にはゆっくりと時間を取りたいと思いました。特に、オステンドから北海沿岸を走るトラムからの眺めはすばらしく、1日5ユーロで乗り放題ですので好きな所で下車しながらゆっくり回りたいと思いました。

海岸線がきれいだと思ったのは、海岸線全体の55%がコンクリートで覆われているどこかの国[問題64(社会)参照]とは違って、テトラポッドが全く置かれていないことも一因だったと思います。護岸工事らしきものは、数百メーターおきに海岸線とは直角に突堤のような感じの構築物(トラムの中から北海を写した下の写真の中央部に映っています)が伸びているだけでした。この突堤のような設備も高さは人間の背の高さ程度しかないため、景観を妨げるものではありませんでした。突堤の手前を二人の人が犬を連れて散歩しているのが映っているのですが、見えますでしょうか。

下の写真はオステンドの駅前で撮ったものですが、リゾート地らしく駅前にはヨットハーバーが広がっていました。中央の高いビルの下に2両編成のトラムが走っているのが見えます。赤・黄・黒の旗はベルギー国旗です。


マグリット美術館

マグリット美術館はブリュッセルの郊外にあlり、トラムの切符も売っている地下鉄の切符売り場の人が、94番のトラムの終点の Cim. Jette /Kerkhof van Jette(トラムの路線図で駅名は、フランス語とフラマン語の表記が違う場合には、このようにフランス語、フラマン語の順に両方が表示されています。最初に表示されているフランス語の方は、Jette墓地という意味のようです)という停留所の近くであると教えて下さったため、トラムで行くことにしました。教えていただいた、中央駅の裏手のParc/Park という停留所に行くと、ちょうど電車が来たため飛び乗りました。ところが、路線図を見ても、どこを走っているのか分からず、30分ほどしてWienerという終点の停留所に着いて駅名を路線図で探したところ、逆向きの電車に乗って終点まで来てしまったことが分かりました。次の折り返しの電車が来るのをしばらく待って、引き返し、逆側の終点、つまり美術館の最寄り駅にたどり着いたのは、最初の電車に飛び乗ってから約2時間後でした。しかし、逆向きに乗ったことによって、王宮の前を通ったり、緑にあふれたブリュッセルの郊外の景色を眺めることができました。

さらに、停留所で降りても、美術館がどこなのかが分からず、かみさんが近くの警察署でお聞きしたところ、一つ前の停留所の近くにあるということなので、歩いて戻ってやっとたどり着くことができました。というわけで、ブリュッセルでは中心街以外に行かれる場合には、少なくとも行きはタクシーを利用されることをお勧めします。

中央の建物が美術館ですが、入口の前に紫色の看板が置いてある以外は、全く目印がありませんでした。さらに、ドアには鍵がかかっていて、呼び鈴を鳴らして入れて頂くというシステムでした。美術館に鍵を開けてもらって入ったのは初めてでした。

マグリット(1898 - 1967)はこの家に、1930年7月から、24年間住んでいました。この期間は、マグリットが最も活発に活動していた時期と重なるそうです。

また、この建物の窓、玄関ホールの階段や手すり、ドアの鍵穴、この写真に写っている家の前の街灯などが、マグリットの作品のいくつかで描かれています。
例えば、上の写真のリビング・ルームの暖炉は左の、『突き刺された持続』("La Duree Poignardee"、1938年)という絵に描かれています。
裏庭の奥には、1932年にマグリットが建てさせた、Studio Dongoというアトリエがあります。案内の方のお話では、このアトリエはほとんど使われず、マグリットの主要作品は、裏庭に面した、台所の横の小さなダイニング・ルームで描かれたそうです。
マグリットとは関係ありませんが、美術館と同じ通りに、Ecole J. Brel という小学校がありました。学校の名前にもなるほどですから、[問題31(音楽)などでご紹介した]ブリュッセル出身のシャンソン歌手、ブレルをブリュッセル市民は誇りにしているようです。

[ Rene Magritte Museum, 開館時間:10:00―18:00、月、火曜日休館、Rue Essenghem 135 - 1090 Bruxelles, Tel-Fax 02/428.26.26、地下鉄 Belgica, Bockstael, Siminos, バス、49、53番、路面電車(「トラム」) 18、19、81、94番]

「ジェームス・アンソールの家」

ジェームス・アンソール(1860 - 1949)はオステンド生まれで、両親はみやげ物屋を営んでいました。1877年からブリュッセルの王立アカデミーに学びましたが、80年に帰郷し、以後独身のまま一生を故郷で送ったそうです。「ジェームス・アンソールの家」はアンソールが長年住んだ家を修復したものです。

 1階にはみやげもの屋が再現されていましたが、外観は骨董屋という感じでした。骨董の類が並んでいる辺りは、アンソールの世界と通じるところがあると感じました。
3階のサロンと食堂はアンソールが好んだ部屋で、家具は当時のものだそうです。この写真は『個人旅行27、オランダ・ベルギー、ルクセンブルク』(昭文社刊)からコピーさせていただきました。

受付の方にお聞きしましたところ、館内の絵はコピーで、本物は市内の近代美術館にあるとのことでした。ただ、美術全集を見ると、この部屋の壁一面にかかっている『キリストのブリュッセル入場』の本物はアントワープの王立美術館にあり、ほかの代表作の『暗い婦人』は、ブリュッセルのベルギー王立美術館、『仮面と死神』はリエージュ美術館というように、アンソールの作品はベルギー国内のいろいろな美術館に分散して展示されているようです。

[James Ensor House, Vlaanderenstraat 27, 8400 Oostende、Tel: 059/80.53.35, Fax:059/80.28.91, 開館時間:11月3日―5月31日は土曜日、日曜日/10:00―12:00、14:00―17時、復活祭休暇と6月―9月は、水曜日―月曜日/10:00―12:00、14:00―17:00、休館日は、火曜日、10月1日―30日、11月1、2日、12月25日、1月1日]

「ポール・デルヴォー美術館」

ポール・デルヴォー美術館は、画家が住んでいた場所ではないのですが、三つの美術館の中では一番見応えがありました。トラムのシント・イデスバルド駅から、陸側に伸びる広い通りをしばらく歩くと美術館の表示があったので、簡単に見付けることができました。美術館は、別荘地、保養地という感じの街並みの中にありました。ベルギー観光局の『Travel Manual 2003』によれば、この美術館はデルヴォーのコレクションとしては世界最大だそうです。油絵が4―50点、デッサンも多数展示されているだけでなく、絵を描く際に参考にしたとされている多数の鉄道模型(作品に登場する列車は、本物ではなく、模型をモデルにしていたようです)や人形(作品の登場する女性が人形のような感じなのは、人形をモデルにして描かれたためらしいということが分かりました)も展示されていて、デルヴォー・ファンなら必見の美術館のようです。

下の写真の正面が、美術館の入口です。建物がこぢんまりしている感じがしますが、展示室は一階部分は小さく、半地下から地下に広い展示室がありました。展示室は、写真右手の庭の下から、道路をはさんだ向かい側の駐車場の下にまで広がっていました。

レストランもなかなかのものでした。私が食べたスパゲッティ・ボロネーズ、つまりスパゲッティ・ミートソースは、普通のミートソースの周りに、チーズを細い糸状にしたものがドーナツ状に盛りつけられていて、これまでに食べたスパゲッティ・ボロネーズでは最高だったような気がしました。ただ、かみさんが注文した、ベルギー名物のワッフルの方は、取り立てて言うほどのこともなかったようでした。

[Paul Delvaux Museum, Paul Delvauxlaan 42, 8670 Koksijde (Sint-Idesbald), Tel: 058/52.12.29, Fax:058/52/12.73、開館時間:4月―9月の火―日曜日、10―12月の木―日曜日祝日/10:30―17:30、休館日:月曜日(7―8月は開館)]

アラスのグランプラス

アミアン・・・ユーロスターを途中下車して訪問する価値のある町でご紹介した、アミアン同様、アラス(Arras、人口42,715人)もマノンレスコーに出てくる町ですが、アミアンほど重要な場面はなかったように記憶しています。アラスはフランス革命の指導者の一人、ロベス・ピエールの出身地であるということ以外あまり重要な町ではないようです。中世にはラシャ製造業と織物工業で栄えましたが、その後有力な産業が育たなかったため、すたれたようです。町全体がなんとなく淋しい感じがしました。下の写真は、町の中心になっている、グランプラスの夜景です。ブリュッセルのグランプラスが有名ですが、アラスもブリュッセル同様、フランドル地方に含まれているため、共通点も多いようです。ブリュッセルのグランプラスとの共通点は、広場が石畳になっている点です。これは、広場で毎週のように、マーケットが開かれるためのようです。

上の写真はホテルの部屋の窓から撮りましたが、広場の反対側からホテルの方を撮ったのが下の写真です。泊まったのは、Ostel les 3 Luppars (これはフラマン語のようで、フランス語では、Hotel les 3 Luppars)というホテルで、下の写真の正面左寄りのレンガ色の建物です。建物の前面は、15世紀に建設されたものをそのまま利用していますが、内部の設備は最新式で、宿泊料も安いため、お勧めです。難点は、駅からやや遠い点です。

アラスの中心には二つの大きな広場があり、もう一つの広場が、下の写真の プラス・デ・エロ(la place des Heros、英雄広場)です。こちらも石畳ですが、広場の周りにはレストランが並んでいて、広場は駐車場になっていました。正面は市役所です。フランドル地方では、あまり大きなカテドラルはない代わりに、市役所などに、写真に写っているbeffroi(ベフロア)という塔が立っていて、中に鐘が入っていて、それが町の中心になっている場合が多いようです。Guide Bleuというガイドブックによれば、beffroiは、この地域では、町の独立の象徴となっているそうです。ベフロアは、アラスのもののほかに、リール、ドゥエイのものも有名だそうです。


シャルルビル・メジエール・・・詩人アルチュール・ランボーが生まれた町

下の写真は、詩人アルチュール・ランボー(1854―1891)が生まれたシャルルビル・メジエールの中心となっている、プラス・デュカルから、現在はランボー記念館となっている正面の旧水車小屋の方向を写したものです。平日にもかかわらず、ずいぶん賑わっていました。なにかのお祭りのような感じでしたが、何なのかは分かりませんでした。

下の写真は、上の写真の中央にも映っていて、現在はランボー記念館となっているの旧水車小屋です。

記念館の中には、文献や写真のほかに、旅行家でもあったランボーが実際に使っていた、旅行かばんや身の回り品も展示されていました。

ランボーの生家は下の写真の中央左寄りの建物 (12 rue Beregovoy) です。現在は旅行会社が使っているようです。

この建物の2階の窓の上に掲げられているプレートを拡大したのが、下の写真です。プレートには、「詩人、探検家のJean Nicolas Arthur Rimbaud が1854年10月20日にこの家で生まれた」と書かれています。

下の写真はランボーの墓(右側の墓石)です。町はずれの墓地にありましたが、私たちが訪問したときには、ランボー記念館でもお会いした、おじさんが一人墓の横に座って、何かをつぶやいていました。何を言っているのか分かりませんでしたが、ランボーの詩を暗唱していたのかもしれません。とすれば、かなりのランボー・ファンということになります。

自分の生まれ故郷と母親に対する嫌悪感が、ランボーの詩にとって重要な意味を持っているようです。『フランス文学講座 3、詩』(大修館)252ページによれば、「ユーゴーやコント・ド・リール、バンヴィルなどをお手本として詩作を始めながら、ありきたりの高踏派(引用者注:フランス19世紀後半の耽美主義的詩人の一派)文学青年になり終わらなかったことについては、母親によって代表される田舎町特有の愚鈍な頑迷さとそれを助成する物質的環境に対する嫌悪を、あまりにも切実な原体験としてもったという事情が重要である」そうです。この辺の事情は、残念ながら通り過ぎるだけの旅行者には、推察するのは難しいようでした。

ランス・・・歴代フランス国王の戴冠式が行われた大聖堂

ランスの大聖堂(Reimsと書いて、ランスと読みます, Notre-Dame)は、代表的なゴシック様式のカテドラルの一つで、1211年に建設が開始され、完成したのは1500年でした。現在のカテドラルが建設される前の時代を含めると、アンリ1世(1027年)から、シャルル10世(1825年)までの国王のうち、ルイ16世、アンリ4世、ルイ18世以外は、すべて戴冠式がランスで行われました。残念ながら、訪問した2003年6月には、修復工事中でした。今回の旅行では、ランス、ボーベイ、ルーアンの三つの大聖堂を回りましたが、全部が修復工事中でした。理由はよく分かりませんが、外面の彫刻などが、恐らく酸性雨の影響で、かなり浸食されている感じがしました。

ランスのカテドラルで一番有名な「ランスの微笑(Ange au sourire)」(下の写真)[Les cathedrales gothiques ( Editions Ouest-France)からコピーさせていただきました]も本来なら、上の写真の左側の白い部分に見えるはずですが、覆いで隠されてみることができませんでした。

ランスには、藤田嗣二が、設計し、ステンド・グラスと壁画を描き、写真に写っている外部の十字架を彫刻した、フジタ・チャペル(la chapelle Fujita)という小さなチャペルもあります。


ボーベイ・・・ひょんなことからお祭りにぶつかりました

ボーベイを訪問する予定はなかったのですが、ひょんなことから訪問することになりました。本当はルーアンに泊まりたかったのですが、ランスのホテル(Hotel de la Cathedrale --- これまでのフランス旅行で最も不愉快な思いをしました。このホテルは避けられることをお勧めします)から、ミシュランに載っているルーアンのすべてのホテルに電話しても、どこも空いている部屋がなかったため、少し手前の、ボーベイのホテルに泊まることにしました。ところが、ボーベイはちょうどお祭りの日だったため、結構楽しめました。

下の写真が、ボーベイのカテドラルです。パンフレットに、カテドラルの聖歌隊席(choeur)の高さが世界最高と書いてありました。また。正面の壁面(ファサード)の装飾は、フランボアイアン様式の代表的なものだそうです。ただ、建物が傾きかけているらしく、内部に巨大なつっかえ棒が設置されていました。

このカテドラルには、ボーベイ出身のAugust Verite (1868)製作の、宇宙時計という巨大な(高さは5―6mはあったと思います)装飾機械時計が飾ってありました。こんなものが、カテドラルに設置されているのを見たのは初めてでした。

町の広場では、ブラスバンドのコンテストが開かれていました。参加した多数のブラスバンドが町中を練り歩いていたため、町中が賑やかでした。


ルーアン・・・ノルマンディー地方の中心都市

ノルマンデー地方の中心都市で、小説家のフローベルはこの町の出身です。やはり、カテドラルが有名ですが、結構観光誘致に熱心なようです。例えば、世界帆船フェスティバル「グラン・アルマダ」が4年に1回開催されています。第1回が開催されたのが1989年で、2003年は第4回に当たり、6月28日から7月6日までの日程で、世界中から28隻の帆船が集まったそうです。ホテルが満員だったのは、このフェスティバルと重なったためだったようです。また、カテドラル前の観光案内所も「グラン・アルマダ」の影響もあったためか、大賑わいでした。また、説明付きの市内案内地図に日本語版のものがあるのには驚きました。下の写真が観光名所の一つである、大時計(Gros Horloge)です。アーチの間から見える塔がカテドラルの尖塔です。

救国の英雄ジャンヌ・ダルクが1431年に火あぶりの刑に処せられたのもルーアンでした。その場所には、高い十字架が建てられていました。

下の写真はサンマクール回廊という建物で、1348年から長期にわたって続いた黒ペスト時代に、遺体を収容するために建てられたそうです。入口近くの窓から中を覗くと、改修工事の時に壁の中から見つかった猫のミイラも見ることができました。

中央の木立の中には十字架が立っていて、写真ではちょっと見にくいのですが、足元に人間の頭の彫刻が転がっていました。どういう意図でこういうことをしたのか不可解でした。全体として、死者の怨念がこもったような場所という印象を受けました。

(2004年2月8日)
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