問題31(音楽)に対する中西さまのご意見

問題31解答で、フランスのジャック・ブレルという歌手が人気が絶頂に達していたときに、コンサート活動を中止したのは、がんであることが分かったからだろうという私の見方を示しました。この点について、ジャック・ブレルの曲をすべて翻訳され、伝記も書き上げられた中西省三さま(ペンネームは桑原真夫さま)から貴重なご指摘をいただきましたので、ご本人のお許しを得て掲載させていただきます。

XXXXXXXXXX 2001年7月25日付けの中西さまのメール XXXXXXXXXXXXXXX

小倉様
 初めてお便りいたします。小生はジャック・ッブレルの作詩のすべてを邦訳しております中西省三(ペンネームは桑原真夫)と申します。またブレルの伝記も既に書き上げておりますが(ベルギー大使と石井好子さんの推薦文も頂いております)、昨今の出版界の不況によりまして採り上げてくれる出版社がいないのが現状であります。

 さて、本日小倉様のホームページに偶然出会いました。ブレルの記事を読ませていただきまして、2~3気づきましたことをご報告申し上げます。

1.ブレルが、がんの告知を受けたのは1974年11月5日スイスの病院においてです。この年、「アスコイ2号」で船出したブレルは停泊していたスペイン領のテネリフェ島で体調の異変をきたします。急遽スイスのジュネーブに飛び親友の医者の診断をあおぎます。左肺に初めてがんの病巣が発見されました。手術は11月16日ブラッセルで行われ、一応成功しました。しかしブレルは何かにとりつかれたように12月30日に再びテネリフェ島に帰り、大西洋横断の旅に出発します。

2.ブレルの父親は商社マンとして長い間ベルギー領コンゴに滞在しておりました。母親ルイーズとはコンゴ駐在中に結婚、生まれた双子は病死、兄のピエールが次に生まれました。両親は傷心のうちに帰国、やがてブレルが生まれました。父親はルイーズの兄のダンボール会社を共同経営することになりました。ダンボール会社は兄が引き継ぎました。ブレルは学校の成績が悪く進学できなくなったため仕方なく父親のダンボール会社を手伝っておりました。そのうちブレルの関心は自ら歌うことへと移ってゆきました。ブラッセルのキャバレーで「ベレル」という名前で歌っておりました。(この過程はバルバラと実によく似通っております)

3.ご指摘の通り、最後のバークレイ版の12曲は彼の傑作が散りばめられております。未発表の5曲にも詩としてすばらしいものがあります。小生の個人的な嗜好としましては、最高傑作は「アムステルダム」「カテドラル(未発表)」「リエージュの街に雪が降る」「クノック・ル・ズート」「ジョジョ」「老夫婦」「我が大地」「古い恋人達の歌」「マルキーズ諸島」を挙げたいと思います。いずれにしましてもブレルの歌を歌える力量のある歌手が日本には存在しないことが残念ですが。  中西省三 拝

XXXXXXXXXX このメールに対する8月6日付の私の返信 XXXXXXXXXXXXXXX

中西さま
7月25日のメールありがとうございました。お返事が遅れてしまいましたことをお許しください。

ジャック・ブレルの全曲の翻訳をされ、伝記までお書きになった方に、問題に目を通していただけたとは光栄です。がんの告知についての私の見方は、パリ・マッチ誌の追悼号(1978年10月20日付、Philippe Labro氏の署名記事、73ページ)によるものだと思います。この文のWord file(下にコピーしました) を添付しましたのでご覧ください。ただ、私のつたないフランス語力では、全くの勘違いをしていた可能性もありますので、ご確認いただければ幸いです。----以下省略

[パリ・マッチ誌のコピー]
Ce fameux soir de 1967, a l’Olympia, quand il fait ses adieux devant le Tout-Paris de la chanson, la radio et le disque, Jacques Brel sait-il deja que pousse en lui le champignon insidieux et veneneux du cancer? C’est possible. A l’epoque, au milieu des regrets, des <<reviens>> et <<il reviendra>>, ses amis ou ses admirateurs les plus fideles acceptent ; plus ou moins volontiers, les explications qu’il donne. (フランス語表記の「アクサン」は、私の能力不足のために省略させていただきました)

[私のつたない翻訳]
1967年のオランピア劇場での有名なコンサートで、シャンソン界、放送界、レコード業界の有力者を前にして、ブレルはコンサート活動を中止することを発表した。その時点で、ブレルは自分の体に初期の悪性のがんが発生していたことを知っていたのだろうか。その可能性はある。活動中止を残念がる声や、ブレルはステージに戻ってくるとか、活動を再開するだろうという見方が流れるなかで、ブレルは、友人や忠実なファンに対して、ある程度自発的にそのような説明をしていた。

XXXXXXXXXX このメールに対する8月7日付の中西さまのお返事 XXXXXXXXXXXXXXX

小倉様

 わざわざメールをありがとうございました。また仏文の資料も参考になりました。小生が20年間かけて研究いたしました結果ではブレルのがんの発病は医学的にはやはり1974年と考えております。(自覚症状という点ではもっと前にあったことでしょう)

 現在「ジャック・ブレルという詩人」という伝記を「笹川日仏財団」で支援してくれるよう申請しておりますが、出版自体なかなか難しいようです。

尚、小生はブレルに関します(現在フランス、ベルギーで出ております)全ての書物をもっております。また彼の全てのレコード及びCD、そして全てのビデオを手元に持っております。昨年12月が最後のパリ訪問でしたので、その後出たものがあればまだ入手しておりませんが。今後もし小倉様のお持ちの資料でご支援していただくこともあろうかと思いますので何卒宜しくお願い申し上げます。

 閑話休題:小生はこのところ19世紀のスペインの詩人ロサリア・デ・カストロ(ガリシア語)の翻訳出版に忙殺しておりまして、若干ブレルはお休みしております。日本で何かブレルの動きがありますれば教えて頂ければ幸いです。(スペインものは「桑原真夫」のペンネームや本名の「中西省三」で出版しております)

 それでは引き続き小倉様のご厚誼を宜しくお願い申し上げます。
次の小倉様のメールをお待ちしております。          中西 拝

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素人が間違いのないように注意して書いても結構ぼろが出てしまうものです。私の見方は、かなり偏ったものであることが分かりました。一般的な見方としては、中西さまの方が正しいようです。ただ、私はブレルにかなり入れ込んでいて、よく分からないような理由で重大な決断をするはずはないという気持ちが強いため、ハッキリとした理由があったと考えたようです。

中西さまは「カテドラル(未発表)」などの未発表の作品も入手されているようですが、どうやって入手されたのですか。できれば、教えていただきたいですね。

「ジャック・ブレルという詩人」という伝記が一日も早く出版されますように祈っております。

中西さま、ご親切にいろいろと教えていただきましてどうもありがとうございました。
今後とも、ご指導いただければと、勝手ながらお願い申し上げます(2001年8月8日)。

2003年5月5日追記:2003年はブレルの没後25周年に当たるため、ブリュッセルでは多数のイベントが企画されています。東京でも、ベルギー観光局がいくつかのイベントを企画されました。そのうち、『シャンソン歌手 ジャック・ブレルとベルギー』というトークショーでお聞きしたことと、その後気が付いたことを、最近気付いたことの「ジャック・ブレルについてのトークショーが開催されました」にご紹介しました。このトークショーには中西様もパネリストとして参加されていました。]

2014年9月23日追記:没後25周年を記念して2003年に開催された「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展の際、1977年に録音された18曲のうち、12曲が収録されていた、Jacques Brel/Les Marquises(レ・マルキーズ、ブレルが最後の数年間を過ごしたマルケサス諸島のフランス語名),Barclay 810 537-2というCDに、残りの6曲のうち5曲が追加され、全部で17曲が収録されたバージョン(980-817-7)が発売されていたことがあとから分かりました。追加された5曲には上で中西様が触れられている「カテドラル」も含まれています。詳しくは、『ジャック・ブレルの没後25年目の2003年に発表された「カテドラル」は「辞世の歌」』をご参照ください。]

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