問題31 (音楽)の答え・・・正解はa. (歌を作ることは大切だが、歌うことは重要ではない)ですが、その後、がんにかかっていたことが明らかとなり、コンサート活動が中止されたあとも、映画とミュージカルへの出演は続けられました。

がんを告知されたことが引退の真の理由であった可能性が高い

1967年5月16日のルベ(Roubaix)での公演を終えて石畳をひとりで帰っていくブレル。
(Paris-Match/Lefebure,Pierre Berruer, Jaques Brel va bien. Il dort aux Marquises, Press de la Cite,1983)

「歌うことは重要ではない」というコメントは、1985年に「テレビジョン・ベルギー」によって制作された、「栄光のシャンソン・フランセーズ」というビデオに収録されている当時のインタビュー場面での発言です。このインタビューでは、さらに「もし、このまま続けたら、10年前の曲を何度も歌うことになる、そして成功して穏やかに暮らすだろう。むしろ、私は戦っていたい、私は、現実、恐怖、正義、自分を高めることを愛する」とも述べています。

ジャック・ブレルが1978年10月9日にがんで他界した時のル・ポワン誌の追悼記事(同年10月16日号)にも、同じ趣旨の発言が取り上げられています。同誌によれば、1968年12月から翌年5月までミュージカル「ラ・マンチャの男」に主演したあとに、やせ細り、疲れ切ったブレルと会って驚いた人に、ブレルは「シャンソンを書くのは、人間らしい行為だ。シャンソンを歌うのは、動物的行為だ」と言ったそうです。

上記のビデオや、引退を発表したオランピア劇場公演の映画を見ればよく分かるのですが、ブレルは、歌うときに全エネルギーを使うという感じで、コンサートも後半になると汗だくになり、歌うというより、格闘するという感じでした。私は、これほどエネルギーを傾けている活動を、重要ではないとか、動物的行為だと、本心から言うことは考えられないと思います。

実際には、がんを宣告されたことが、引退の理由だったようです。パリ・マッチ誌の追悼号(1978年10月20日付、Philippe Labro氏の署名記事)には、特に親しい友人や支持者に、コンサート活動を中止するのは、がんのためであるとブレルが説明していたと書かれています。上記ル・ポワン誌の記事からも、少なくとも68年よりも前に、がんであることを知っていたことがわかります。ブレルはがんを告知されて、コンサートは体力的に持たないと思ったためコンサート活動を中止したというのが真相ではないかと思います。

1966年のオランピア劇場公演でのブレル(Le Point, 16 Oct. 1978)

コンサートほど、体力を消耗しないとみられる、ミュージカルや映画への出演と映画監督(8本の映画に出演して、2本を監督しました)に活動を絞ることになりましたが、ミュージカルも非常に体力を消耗するものであることがわかり、映画もあまり成功しなかったこともあって、結局ファンの前から姿を消すことになりました。その頃から、長さ18メートルのヨット(l'Askoi号)に乗って、モロッコや西インド諸島にたびたび出かけるようになりました。また、ブレルは、西インド諸島のフランス領グアドループ出身のMadlyと、その頃から生活を共にするようになりましたが、Madlyはブレルが亡くなるまで、闘病生活を支えることになりました。75年には、ゴーガンが住んだタヒチ島の近くのマルケサス(フランス語ではマルキーズ)諸島に向かい、その後亡くなるまでのほとんどの期間を、この島で過ごすことになりました(ブレルは、マルケサス諸島のゴーガンが埋葬されている場所のとなりに埋葬されているそうです)。

・大歌手への道

ジャック・ブレルは1929年4月8日にベルギーのブリュッセルで、大きな板紙工場の経営者の家に生まれました。厳格なカトリック教育を受けて、工場を継ぐことを期待されていたのですが、次第に音楽の才能を発揮するようになり、最初のうちはブリュッセルのナイトクラブで歌っていました。ブレルの最初のレコード(SP盤)は友人の協力でフィリップス社から、53年に発売されましたが、200枚しか売れなかったそうです。ところが、フィリップス社のディレクターで、パリのシャンソニエ(シャンソンを聞かせるバー)「トロワ・ボーデ」のオーナーでもあり、新人発掘の名手と言われたジャック・カネッティ(ジョルジュ・ブラッサンスやジュリエット・グレコを発掘した)の呼び出しを受けて、1953年に妻子を残してパリに移り住むことになりました。ただ、カネッティーは、ブレルの容貌がステージ向きではないという理由を挙げて、長期契約を渋ったそうです。そのため、ブレルは2週間だけ「トロワ・ボーデ」に出演して、その後は生活のあてをなくしてしましました。

ブレルが初めて一般に知られるようになったのは、1954年にジュリエット・グレコがリサイタルでブレルの「OK 悪魔」という歌を歌ってからだったようです。ブレルの人気が定着したのは、1957年に最初の大ヒット曲となった、「愛しかない時、Quand on n'a que l'amour」などを収めたLPアルバムがACCディスク大賞を獲得してからでした。

この段落は2021年8月21日に追記しました〕「愛しかない時」は表向きは愛の歌ですが、歌詞をよく読むと反戦の歌にもなっているようです。後半の歌詞を見ると、このことがよく分かります。「この世の数々の不幸のために」Pour les maux de la terre、「ひたすら闘う人々にそれ(愛)を与えてあげられる」à offrir à ceux-là dont l’unique combat est de chercher le jour、「大砲にも語りかけて、軍鼓を沈黙させるためには、1つの歌だけで、何もいらない」pour parler aux canons et rien qu’une chason pour convaincre un tambour、「だが、愛する力のほかは、何もなくていい、僕たちが手をつなぎ合えば、友は世界に広がる」Alors sans avoir rien que la force d’aimer Nous aurons dan nos mains Amis le monde entire。 この歌が発表されたのは1955年でしたが、1954年に発表されたボリス・ヴィアン(Boris Vian、1920-1959)の反戦歌、「脱走兵」が発売禁止になるなど、反戦歌に対する右翼の攻撃が非常に激しかったことが、愛の歌の体裁をした反戦歌が発表された可能性が高いと思います。また、1954年という年はフランスの現代史の中でも、インドシナ戦争で敗北し、アルジェリア戦争が始まったという二つの意味で重要な年でした。当時の政治的な雰囲気については、「いまだに歌い続けられている世界で最も有名な反戦歌の一つ・・・「脱走兵」」をご参照ください。

1959年には、問題にも紹介した「行かないで、Ne me quitte pas」で大歌手と認められるようになり、その後も「フランドル女たち、Les Flamandes」、「マリーク、Marieke」、「そよ風のバラード、Le moribond」、「忘れじの君、On n'oublie rien」などのヒット曲を次々と発表しました。ブレル自身が歌ったブレルの歌のCDで、手頃なものは、主要な曲が入っており、後から触れる最後のCDの曲も何曲か収録されている「ジャックブレルのすべて」(SC-3106-7)です。

ブレルの曲はいろいろな歌手が歌っています。「行かないで」はカンツォーネのミルバが歌ったほか、「If you go away」という英語の歌に翻訳されて多数の歌手が歌いました。ブレルの曲を、他の歌手が歌ったCDでは、イザベル・オーブレのもの(Isabelle Aubret chante Jacques Brel, 74444-2 CB701)が、最もおすすめですが、ジュリエット・グレコがブレルの曲だけを歌った日本でのリサイタルのライブ盤(Juliette Greco, Hommage a Jacques Brel,INF-003)も出ています。ジャズのニーナ・シモンがフランス語で歌った、「行かないで、Ne me quitte pas」(Nina Simone, Verve Jazz Masters,PHCE-4014)もすばらしいと思いました。また、セリーヌ・ディオンは、歌手になったときからオランピア劇場で歌うことを夢見ていたそうですが、その最初のコンサートのアンコール曲として、「愛しかない時、Quand on n'a que l'amour」を歌いました。このコンサートのライブ盤も出ています(Celine Dion a l'Olympia, COL 478161-2)。

日本でも多数の歌手が、ブレルをレパートリーに加えていますが、私が一番いいと思ったのは、東京厚生年金会館前のシャンソニエ「シャンパーニュ」のムッシュの歌でした。ムッシュはブレルの曲の歌詞を自分で翻訳する(翻案に近い場合もある)という、いれこみようで、主要な曲なら、リクエストに応じて歌っていただくことができます。ムッシュは、どちらかといえば、がらがら声で、歌い方はブレルの曲にぴったりだと思います。CDを出したら必ず買うと言ってあるのですが、まだ連絡がないところをみると、まだCDは出していないのかも知れません。「シャンパーニュ」の難点は、一回6,000円くらいはかかり、しょっちゅう行くには高すぎるという点ですが、お金に余裕のある方にはおすすめです。

・死の直前に最高傑作を発表

ファンの前から数年間姿を隠していたブレルは、島でこつこつと書きだめていた18曲の新曲を携えて、1977年9月に突然パリに密かに戻りました。このうち12曲が1枚のLPにまとめられ、残りの6曲は永久に公開しない契約になっているそうです(下の2014年9月23日付追記をご参照ください)。このLPは、フランスでは単に「Brel」というタイトルで発売されたのですが、日本では「偉大なる魂の復活」という大げさなタイトルが付けられました(今ではJacques Brel/Les Marquises,Barclay 810 537-2というCDとして販売されています)。日本語のタイトルを付けたのは、日本にシャンソンを紹介した恩人ともいえる、葦原英了氏(故人)のようで、葦原氏によるこのLPの解説も、同氏の感激が伝わってくるような内容です。

2014年9月23日追記:没後25周年を記念して2003年に開催された「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展の際、1977年に録音された18曲のうち、12曲が収録されていた、Jacques Brel/Les Marquises(レ・マルキーズ、ブレルが最後の数年間を過ごしたマルケサス諸島のフランス語名),Barclay 810 537-2というCDに、残りの6曲のうち5曲が追加され、全部で17曲が収録されたバージョン(980-817-7)が発売されていたことがあとから分かりました。詳しくは、『ジャック・ブレルの没後25年目の2003年に発表された「カテドラル」は「辞世の歌」』をご参照ください。]

このLPは、ブレルの人生の集大成であり、シャンソンの歴史に残る最高傑作の一つと数えられ、シャンソン史上最大の売れ行きを示したそうです。このCDによって、ブレルは、自分を含めた人間の弱さを鋭く直視し、そのような人間というものに深く共感するという、ブレルの人生観の到達点を示しました。特に、誰にでも、やがては訪れるとはいえ、若いうちは忘れている死というものが、がんの告知によって、可能性と思える段階であることをやめた(face au cancer - par arrêt de l'arbitre )時に、冷静に死を凝視して、死と戦った姿は壮絶ともいえます。

あらゆるシャンソンの中で、一曲だけ好きな曲を選ぶことを求められたとすれば、私はこのCDに入っている、「涙」(Voir un ami pleurer、涙を流す友を見ること)という曲を選びます。

以下にその歌詞を紹介します。このCDに入っている曲は難解なものが多く、フランス人に聞いても、こんな言い方は聞いたことがないというような、文法を無視した表現が散見されるため、思い切って自分勝手に訳しました。当然、誤訳が多数あると思いますが悪しからず。

涙を流す友を見ること
(国内での題名は「涙」)

Voir Un Ami Pleurer
(les paroles et la musique de Jacqus Brel, enregistrée en 1977)
もちろん、アイルランドでは戦いが続き(注1)
音楽を知らない種族もある
優しさのない人もたくさんいる
そして、アメリカ人はもういない(注2)
もちろん、金には臭いはない、
確かに鼻につんとくる臭いはない
もちろん、花を踏んで歩く人もいる
しかし、涙を流す友を見ることは

Bien sûr il y a les guerres d'Irlande
Et les peuplades sans musique
Bien sûr tout ce manque de tendres
Il n'y a plus d'Amérique
Bien sûr l'argent n'a pas d'odeur
Mais pas d'odeur vous monte au nez
Bien sûr on marche sur les fleurs
Mais voir un ami pleurer!
 

もちろんぼくたちが敗北することもある
おまけに、最後には死が控えている
ぼくたちは、もううつむいていて
立っていられるのに驚くほどだ
もちろん、不実な女もいて
虐殺された鳥たちもいる
もちろん、ぼくたちの心は翼を失っている
しかし、涙を流す友を見ることは

Bien sûr il y a nos défaites
Et puis la mort qui est tout au bout
Le corps incline déjà la tête
Étonné d'être encore debout
Bien sûr les femmes infidèles
Et les oiseaux assassinés
Bien sûr nos cœurs perdent leurs ailes
Mais, mais voir un ami pleurer!
 

もちろん、50歳の子供たちによって
荒されつくした街があり
ぼくらは手をこまねいているだけだ
そしてぼくらの愛情は、歯痛を抱えている
もちろん、時間はまたたく間に過ぎ去り
地下鉄は おぼれた人たちでいっぱいだ
真実はぼくらを避けて通る
しかし、涙を流す友を見ることは

Bien sûr ces villes épuisées
Par ces enfants de cinquante ans
Notre impuissance à les aider
Et nos amours qui ont mal aux dents
Bien sûr le temps qui va trop vite
Ces métro remplis de noyés
La vérité qui nous évite
Mais voir un ami pleurer!

もちろんぼくらの鏡は正直だ
ユダヤ人ほどの勇気もなく
黒人ほどの優雅さもない
ろうそくにたとえれば、自分は芯だと思っていても、実際はろうにすぎない
そして、こんな人間たちはみなぼくらの兄弟だ
彼らが愛のきずなによってぼくらをずたずたにするとしても
もうあまり驚かない
しかし、涙を流す友を見ることは
Bien sûr nos miroirs sont intègres
Ni le courage d'être juifs
Ni l'élégance d'être nègres
On se croit mèche on n'est que suif
Et tous ces hommes qui sont nos frères
Tellement qu'on n'est plus étonnés
Que par amour ils nous lacèrent
Mais voir un ami pleurer!


(注1)1960年代末から、北アイルランドで英国からの独立を目指すアイルランド共和国軍(IRA)のテロ活動が活発化し、現在でも紛争の火種は残っています。
(注2)1975年に南ベトナム民族解放戦線がサイゴン(現在のホーチミン市)を制圧し、ベトナムから米軍が撤退し、ベトナム戦争が終わりました。
(注3) 翻訳は小倉正孝による。


最後に、ブレルの経歴についての話では、「シャンソンのアーティストたち」(藪内久著、松本工房、毎日出版文化賞<特別賞>受賞)を参考にさせていただいたことを付記しておきます(99年2月26日)。

・2001年7月に、ブレルの曲をすべて訳詞して伝記も書かれた中西省三さまから、この解答についてのご意見をいただきましたので、最近気付いたことの「問題31(音楽)に対する中西さまのご意見」で取り上げさせていただきました(2001年8月8日追記)

・2003年はブレルの没後25周年に当たるため、ブリュッセルでは多数のイベントが企画されています。東京でも、ベルギー観光局がいくつかのイベントを企画されました。そのうち、『シャンソン歌手 ジャック・ブレルとベルギー』というトークショーでお聞きしたことと、その後気が付いたことを、最近気付いたことの「ジャック・ブレルについてのトークショーが開催されました」にご紹介しました(2003年5月5日追記)。

・「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rever)展を見に、2003年6月末にベルギーのブリュッセルに行って来ましたので、「最近気付いたこと」の『「夢見る権利」とベルギー』でご紹介させていただきました(2003年8月10日追記)。

・上で「ブレルは、島でこつこつと書きだめていた18曲の新曲を携えて、1977年9月に突然パリに密かに戻りました。このうち12曲が1枚のLPにまとめられ、残りの6曲は永久に公開しない契約になっているそうです」と書きましたが、残りの6曲のうち5曲が2003年に発売されていたことが数年前に分かりました。12曲が収録されていたJacques Brel/Les Marquises(レ・マルキーズ、ブレルが最後の数年間を過ごしたマルケサス諸島のフランス語名),Barclay 810 537-2というCDに、残りの6曲のうち5曲が追加され、全部で17曲が収録されたバージョン(980-817-7)が2003年に発売されていました。詳しくは、「ジャック・ブレルの没後25年目の2003年に発表された「カテドラル」は「辞世の歌」」をご参照ください(2014年9月23日追記)。

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