ジャック・ブレルの没後25年目の2003年に発表された「カテドラル」は「辞世の歌」

問題31(音楽、99年2月に掲載)答えで、「ファンの前から数年間姿を隠していたブレルは、島でこつこつと書きだめていた18曲の新曲を携えて、1977年9月に突然パリに密かに戻りました。このうち12曲が1枚のLPにまとめられ、残りの6曲は永久に公開しない契約になっているそうです」と書きましたが、残りの6曲のうち5曲が2003年に発売されていたことが数年前に分かりました。12曲が収録されていたJacques Brel/Les Marquises(レ・マルキーズ、ブレルが最後の数年間を過ごしたマルケサス諸島のフランス語名),Barclay 810 537-2というCDに、残りの6曲のうち5曲が追加され、全部で17曲が収録されたバージョン(980-817-7)が2003年に発売されていました。

今回は没後25年も経ってから「新曲」が発売されることになった経緯をご紹介します。さらに、この5曲の中にはブレルの「辞世の歌」(この世に別れを告げるための歌)ともいえる『カテドラル(La Cathédrale)』も含まれています。また、没後25周年を記念して開催された「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展の入口の左側に大きく掲げられていた"Partez cueillir les étoiles mais ne vous réveillez pas ........" (星を集めに出かけなさい、でも目を覚ましてはいけません)という言葉は、カテドラルの歌詞であることが分かりました。そんなこともあって、『カテドラル』はブレルの代表作の一つと考えていいようですので、大変な苦労をして翻訳した歌詞を下でご紹介し、さらに私がこの曲について感じたことを最後に付け加えました。

ブレルが77年のLPに残りの6曲を収録しないことにした理由

6曲は永久に公開しない契約になっていると私が判断したのは、Le Point誌の追悼記事(1978年10月16日付、185-186ページ)に次のように書いてあったためです。

「彼は1977年11月にパリに戻った(引用者追記:戻ったのは9月であることが後から分かったたため、問題では9月としてあります)。治療のためだったのだろうか。それは確かだ。同時に、彼の最後のガラス瓶を海に流すためでもあった。つまり、18曲のうち12曲が収録されたLPが発売された。(残りの6曲は、専属レコード会社の社長であるエディー・バークレー(Eddie Barclay)に対してブレルが決して発売しないように求めたため、決して発売されないだろう)。そして、世界の果てから、ひそかに(パリに)到着した亡命者は、自身のゆっくりとした臨終の進行を人目から遠ざけるために、太平洋上の自らの群島に向けて再び出発した」

"Il revient à Paris en novembre 1977. Pour se soigner? Certainement. Et, aussi, pour expédier sa dernière bouteille à la mer: dix-huit chansons dont douze sortiront en disque. (Les six autres, comme Brel l'avait demandé à Eddie Barclay, son éditeur, ne sortiront jamais.) Et, arrivé subrepticement, l'exilé du bout du monde était reparti cacher, dans son archipel du Pacifique, l'érosion de sa lente agonie."

ブレルがなぜ残りの6曲を永遠に公開しないことにしたのか、という疑問が当然生じます。その理由が"Jacques Brel, Vivre debout"par Jacques Vassal, Hors Collection, 2003という本に載っていましたので以下でご紹介します。同書276ページによれば、1977年に18曲を録音した時点でブレルはこれが最後の録音になるとは考えていなかったとブレルに近い複数の人物(les proches)が語ったそうです。つまり、ブレルは残りの6曲を収録した別のLPを後から出そうとしていたそうです。この決断が後に、ミュージシャンと家族の間で、6曲を収めたLPまたはCDを出すかどうかについての深刻な対立を生み出したようです。

家族や親しい友人の一部は(さらに、レコード会社も当然)これらを発表することを望んだのに対して、専属ピアニスト兼管弦楽編曲者のフランソワ・ロベ(François Rauber)や、やはりピアニストのジェラール・ジュアネスト(Gérard Jouannest)らは、未完成の作品をブレルの遺言を無視して発表すべきではないと主張しました。

Le Point誌の記事に登場しているエディー・バークレーはこのLPが発売された1977年11月25日にマルケサス諸島に戻っていたブレル宛てに次のような手紙を書いたそうです(同書277ページ)。

「あなたが改めて指示するまでは、録音された5曲をLPに収録しないことを希望していることをシャルレイ・マルアニ(Charley Marouani、ブレルのマネージャー)から聞きました。」

しかし、これらの未発表の曲が発表されるようになったのは、上記の"Jacques Brel, Vivre debout"によれば、(1)2003年にブリュッセル市が主催し、ジャック・ブレル財団が企画に当たった盛大な「ブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展が開催されることになったこと、(2)音響処理技術の進歩で、1977年の録音を加工することによって、満足できる音楽性や音質を実現できるようになり、(3)録音に参加したミュージシャンも公開することに合意したためのようです。

「カテドラル」は「辞世の歌」

2003年にJacques Brel/Les Marquisesに新たに追加された5曲は、13. SANS EXIGENCES, 14. AVEC ÈLÈGANCE, 15. MAI 40, 16. L'AMOUR EST MORT, 17. LA CATHÉDRALEでした。また、"LE ROMAN DE JACQUES BREL", par MARC ROBINE, Éditions Anne Carrière / Éditions du Verbe (Chorus) [le LIVRE de POCHE] によれば、録音されたものの発表されなかったのは、LE DOCTEUR(sketch), HISTOIRE FRANÇAISE(sketch)の2曲でした。これらを合計すると1977年に録音された曲は19曲となるため、Le Point誌が全部で18曲としているのは誤りである可能性もあると思います。

これらの「新曲」は日本版がないため歌詞を詳しく見ていませんが、「カテドラル」(17. LA CATHÉDRALE)はブレルの「辞世の歌」ではないかと思います。カテドラルの歌詞を苦労して下に翻訳しましたのでご参照いただきたいのですが、この歌はカテドラルが夢の中で大きな帆船となり、その帆船に乗って大西洋、西インド諸島、パナマ運河を通って太平洋に出て、「正面の島々」、つまりブレルが人生の最後を過ごしたマルケサス諸島まで航海するという内容です。

さらに、一番下に追加した「ジャックブレルの略歴」にあるように、歌で描かれた航路は、ブレルがマドリー(Madly)とともに実際に航海したルートでした。さらに、これはファンに対するお別れにもなっていると思います。昔から、旅行、航海は死と結び付けられてきました。最後にボードレールの「悪の華」に収載されている詩のうち、やはり死がテーマとなっていて、一番長い詩である「旅」のIII部 から引用させていただきます(翻訳は京都大学人文科学研究所、多田道太郎編、「悪の花」下巻によります)。

すてきな旅人さん! 何て貴い物語が
海のように深いあんたの眼に映っていることか!
ぎっしり思い出のつまった宝石箱を開けてみせてね、
この世の物ならぬ宝石は、星辰とエーテルからできている(注)。

Etonnants voyageurs ! quelles nobles histoires
Nous lisons dans vos yeux profonds comme les mers !
Montrez-nous les écrins de vos riches mémoires,
Ces bijoux merveilleux, faits d'astres et d'éthers.

蒸気船に乗らず帆もなしでぼくたちは旅がしたい!
この 倦怠の牢獄をいろどるために、一はけ描いてみてね、
ぴんとはった私たちの心のカンバスの上に、
水平線の額に縁どられたあんたの思い出を。

Nous voulons voyager sans vapeur et sans voile !
Faites, pour égayer l'ennui de nos prisons,
Passer sur nos esprits, tendus comme une toile,
Vos souvenirs avec leurs cadres d'horizons.

いったいあんたたちは何をみたの?
Dites, qu'avez-vous vu ?

注:星辰(せいしん)は星や星座のこと。エーテルは普通は、酸素原子に2個の炭化水素基の結合した有機化合物のことを意味しますが、ここでは古代中世文明で、空を満たし星を構成すると信じられていた物質のこと。

「カテドラル」はこの詩を下敷きにしているか、この詩に対する答えになっているかもしれないと思いました。

カテドラル

La Cathédrale
(les paroles et la musique de Jacqus Brel, enregistrée en 1977 mais publiée en 2003)

カテドラルを一つ選んで
何本かマストを立て
船首に斜檣(しゃしょう)を、船内には広い船倉を設け、
マストを支える横静牽(よこせいさく)や、
帆を引き降ろすための降ろし牽(づな)を張りなさい。
空高くそびえ、船腹が幅広な
カテドラルに乗りなさい
フライングジブ(最前部の縦帆)と主帆を広げている
カテドラルに乗りなさい
ピカルディーかフランドルで
導きの星を失った司祭達が売りに出した
カテドラルを一つ選びなさい
この石造りのカテドラルは
かたくなな信仰心から解き放たれることになるだろう
野原を横切って
海が来て花を咲かせている場所まで
そのカテドラルを引いていきなさい
笑いながら帆を揚げなさい
そしてイギリスに向けて疾走しなさい

Prenez une cathédrale
Et offrez-lui quelques mâts
Un beaupré, de vastes cales
Des haubans et hale-bas
Prenez une cathédrale
Haute en ciel et large au ventre
Une cathédrale à tendre
De clinfoc et de grand-voiles
Prenez une cathédrale
De Picardie ou de Flandre
Une cathédrale à vendre
Par des prêtres sans étoile
Cette cathédrale en pierre
Qui sera débondieurisée
Traînez-la à travers prés
Jusqu´où vient fleurir la mer
Hissez la toile en riant
Et filez sur l´Angleterre

カテドラルの高みからみると
イギリスは優しい
たとえ午後のティーパーティーが
寄港地にけだるさの雨をしばしば降らせているにしても
コーンウォールに寄るべきでしょう
夜が明ける頃に
船が優しさと
優しさと愛の間を進みますように
カテドラルを一つ選んで
何本かマストを立て
船首に斜檣(しゃしょう)を、船内には広い船倉を設けなさい
でも目を覚ましてはいけません
すべての帆を大きく広げなさい
おーい、船員諸君!
マッコウクジラを追いに行こう
クジラたちはポルトガル沖のアゾレス諸島に君たちを連れて行くだろう
それから娘たちのいるマデイラ諸島に、
次にアフリカ沖のカナリア諸島から大西洋を渡って
さらにクジラたちは笑いながら
笑いながら君たちを西インド諸島に導くだろう
カテドラルに乗りなさい
旗で船を飾り
帆に歌わせなさい
でも目を覚ましてはいけません

L´Angleterre est douce à voir
Du haut d´une cathédrale
Même si le thé fait pleuvoir
Quelque ennui sur les escales
Les Cornouailles sont à prendre
Quand elles accouchent du jour
Et qu´on flotte entre le tendre
Entre le tendre et l´amour
Prenez une cathédrale
Et offrez-lui quelques mâts
Un beaupré, de vastes cales
Mais ne vous réveillez pas
Filez toutes voiles dehors
Et ho hisse, les matelots
A chasser les cachalots
Qui vous mèneront aux Açores
Puis Madère avec ses filles
Canarianes et l´océan
Qui vous poussera en riant
En riant jusqu´aux Antilles
Prenez une cathédrale
Hissez le petit pavois
Et faites chanter les voiles
Mais ne vous réveillez pas

なんてこった、西インド諸島は美しい
島々はあなた達を夢中にさせるでしょう
そこで眠りに就くのもいいでしょうが
また先を急いで出帆しなさい
すべての鐘が騒がしく鳴り渡っているから
あなたのカテドラルは帆を張り
パナマ運河を通過する
ピカルディーかアルトアの
カテドラルに乗りなさい
星を集めに出かけなさい
でも目を覚ましてはいけません

Putain, les Antilles sont belles
Elles vous croquent sous la dent
On se coucherait bien sur elles
Mais repartez de l´avant
Car toutes cloches en branle-bas
Votre cathédrale se voile
Transpercera le canal
Le canal de Panama
Prenez une cathédrale
De Picardie ou d´Artois
Partez cueillir les étoiles
Mais ne vous réveillez pas

そしてここが太平洋だ
穏やかな波が風にうねって
静かに音楽を奏でる
正面の島々まで
島の人々があなたを許してくれますように
ほかのどの場所でよりも寛大に
あなたは花に囲まれて
消えてなくなりたいと思う
カテドラルに乗りなさい
旗で船を飾り
帆に歌わせなさい
でも目を覚ましてはいけません
ピカルディーかアルトアの
カテドラルに乗りなさい
星を集めに出かけなさい
でも目を覚ましてはいけません
星を集めに出かけなさい
でも目を覚ましてはいけません
この石造りのカテドラルを
森を横切って
海が来て花を咲かせている場所まで
でも目を覚ましてはいけません
でも目を覚ましてはいけません

(翻訳:小倉正孝)
Et voici le Pacifique
Longue houle qui roule au vent
Et ronronne sa musique
Jusqu´aux îles droit devant
Et que l´on vous veuille absoudre
Si là-bas bien plus qu´ailleurs
Vous tentez de vous dissoudre
Entre les fleurs et les fleurs
Prenez une cathédrale
Hissez le petit pavois
Et faites chanter les voiles
Mais ne vous réveillez pas
Prenez une cathédrale
De Picardie ou d´Artois
Partez pêcher les étoiles
Mais ne vous réveillez pas
Cette cathédrale est en pierre
Traînez-la à travers bois
Jusqu´où vient fleurir la mer
Mais ne vous réveillez pas
Mais ne vous réveillez pas.

ジャック・ブレルの略歴
問題31(音楽)の答えなどのこのホームページのほかの部分と重複している箇所があります)、

・1929年4月8日にベルギーのブリュッセルで、大きな板紙工場の経営者の家に生まれました

・1941年―47年(12―18歳)・・・カトリック系のサンルイ中・高校で厳格な教育を受けました。この間46年にはカトリック系の青年運動「フランシュ・コルデ(Franche Cordée、「ザイルで結ばれた自由な仲間」という意味か?)」に加入。歌を始めたのも、この活動の中で歌ったことがきっかけとなったようです

・1950年(21歳)・・・テレーズ・ミチェルセン(Thérèse Michielslen)と結婚

・1952年(23歳)・・・父の経営する板紙工場に幹部として入社

・1953年(24歳)・・・最初のレコード(SP盤)がフィリップス社から発売されましたが200枚しか売れませんでした。歌に専念するため板紙工場を退職し、フィリップス社のディレクターで、新人発掘の名手と言われたジャック・カネッティの呼び出しを受けて、1953年に妻子をブリュッセルに残して、パリに移り住むことになりました

・1956年(27歳)・・・ドーナツ盤の 「Quand on n'a que l'amour、愛しかない時」がレコードとしては初のヒットとなりました。この曲を収めたLPがACCディスク大賞を獲得。この曲は表向きは愛の歌ですが、歌詞をよく読むと反戦の歌にもなっているようです。1954年に発表されたボリス・ヴィアン(Boris Vian、1920-1959)の反戦歌、「脱走兵」(当時の状況については「いまだに歌い続けられている世界で最も有名な反戦歌の一つ・・・「脱走兵」」をご参照ください)が発売禁止になるなど、反戦歌に対する右翼の攻撃が非常に激しかったことが、愛の歌の体裁をした反戦歌が発表された可能性が高いと思います。

・1959年(30歳)・・・「Ne me quitte pas、行かないで」の成功で大歌手と認められるようになりました。

・1966年(37歳)・・・オランピア劇場でのコンサートで、「これが私の最後のコンサートツアーになる」と宣言。「歌を作ることは大切だが、歌うことは重要ではない」というのが表向きの理由でしたが、実際にはがんを宣告されたため、体力を使うコンサート活動は難しいと考えたためだったようです(問題31(音楽)答えをご参照ください)

・1967年(38歳)・・・5月16日のルベ(Roubaix)での公演で、15年間のコンサート歌手生活に終止符を打ちました。この年の1月には 「ジャック・ブレルは今日もパリに生きて歌っている、Jacques Brel is alive and well and living in Paris」というミュージカルがニューヨークで封切られました。このミュージカルは、いまだに時々日本でも公演されています

・1968年(39歳)
・・・死との対話をテーマにした「J’arrive、孤独への道」を発表。その中で、「菊の花から菊の花へ、・・・行くよ、いま行く、だがなぜいま? なぜこのおれが?」と歌いました

・1969年(40歳)・・・ミュージカル「ラマンチャの男」のフランス語版を自らが主演して公演したほか、映画製作や映画への出演は続けられました

・1971年(41歳)
・・・クロード・ルルーシュ(Claude Lelouch)監督の『冒険また冒険』(L’aventure c’est l’aventure)という映画に出演。その際、西インド諸島のフランス領グアドループ出身のマドリー(Madly)と知り合いました。マドリーはブレルが亡くなるまで、闘病生活を支えることになりました

・1974年(45歳)・・・長さ19メートル、42トンのヨットAskoyIIを購入。7月24日にマドリーと次女のフランス・ブレル(France Brel)を伴って、西インド諸島に向けてアントワープ港を出港しました。しかし、10月19日に、西インド諸島のテネリフェ島(Tenerife)でがんの病状が悪化、飛行機でジュネーブに戻り、入院しました。11月16日にブリュッセルで肺がんの手術を受けましたが、12月22日には再び西インド諸島に戻りました。

・1975年(46歳)・・・ブレルとマドリーは7月頃までにパナマ運河に到着、9月から59日間太平洋を航海して11月19日にマルケサス諸島(Marquises)のHiva OaのAtuona湾に到着しました

・1977年(48歳)・・・島でこつこつと書きだめていた18曲の新曲を携えて9月5日にパリに戻り、18曲を録音。そのうち12曲がLPにまとめられて発売されました。このLPは、ブレルの人生の集大成であり、シャンソンの歴史に残る最高傑作の一つと数えられ、シャンソン史上最大の売れ行きを示しました。このLP(その後Jacques Brel/Les Marquises,BarclayというCDとしても発売されました)によって、ブレルは、自分を含めた人間の弱さを鋭く直視し、そのような人間というものに深く共感するという、ブレルの人生観の到達点を示しました

・1978年(49歳)
・・・年初から病状が深刻化したため、7月にフランスに戻り、偽名で入院していましたが、パパラッチに追いかけられたため、アビニヨンやスイスに滞在しました。10月7日に呼吸困難に陥りパリのボビニー(Bobigny)病院に転院したものの、10月9日に死去しました

・2003年・・・没後25周年に当たるためブリュッセルでブレル、夢見る権利」(Brel, le droit de Rêver)展という大規模な追悼展が開催されました。その際、77年に録音された18曲のうち残りの5曲を追加したCDが、同じLes Marquisesというタイトルで発売されました。残りの6曲については、Le Point誌の追悼記事(1978年10月16日付)によれば、ブレルが永久に発売しないように求めたため、没後25年間もお蔵入りしていたようですが、この機会に発売されることになりました

(2014年9月23日)

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