いまだに歌い続けられている世界で最も有名な反戦歌の一つ・・・「脱走兵」
「脱走兵」は世界で最も有名な反戦歌の一つで、シャンソン全体の中でも世界的に最もよく歌われてきた曲の一つでもあります。小説家、ジャズ・トランペット奏者でもあったボリス・ヴィアン(Boris
Vian、1920-1959)が作詞し、ボリス・ヴィアンとハロルド B. バーグ(Harold B. Berg)が共同で作曲した曲で、1954年に発表されましたが、現在でも歌い続けられています。
歌詞を下にコピーしましたが、フランス軍の兵士が、戦地(フランスは当時ベトナムと戦争していたため、おそらくベトナムの前線)に向かうという命令を受けたものの、戦争で家族は悲惨な目に遭った経験を持つだけでなく、「哀れな人々を殺すためにわたしは生まれてきたのではありません」と考えているため、脱走することに決めて、そのことを大統領宛ての手紙で説明するという内容です。
歌詞をムルージの助言で訂正
Wikipediaのフランス語版によれば、この歌を最初に歌ったのは「小さなひなげしのように"Comme un p'tit coqu'licot"」という大変美しいシャンソンで1953年にACCディスク大賞を受賞したムルージ(Mouloudji、1922-1994)でしたが、ほかの歌手は最初に公表された歌詞があまりに過激だったため、歌うことをためらったそうです。ただ、ムルージは歌う際に歌詞を訂正するようにボリス・ヴィアンに提案したそうです。提案の中で、ボリス・ヴィアンが作詞した歌詞の最後の「もし私を追いかけるなら、私は武器を持っていて、人も殺せますと憲兵に伝えてください« Si vous me poursuivez, prévenez les gendarmes Que j'emporte des armes et que je sais tirer »」という部分について、ムルージが「平和主義者が銃を持っているというのは想像できない」と指摘したことは特に重要だったようです。そこでボリス・ヴィアンとムルージは相談して、現在の「わたしを追跡させるのでしたら、憲兵におつしゃっておいてください、わたしが武器をもっていないことを、そして撃ち殺して構わないということを(Si
vous me poursuivez, Prévenez vos gendarmes, Que je n'aurai pas d'armes,
Et qu'ils pourront tirer)」という感動的な歌詞に修正したそうです。そのほかに、(1)出だしの「大統領閣下」(Monsieur
le Président)を「偉大と称されている方々(Messieurs qu'on nomme grands)」に、(2)「 もう決めました、わたしは脱走します(
Ma décision est prise, Je m'en vais déserter)」を「戦争は愚かな行為です、世の中の人はみんなうんざりしています(les
guerres sont des bêtises, le monde en a assez)」に、という訂正が行われましたが、これら二つについてはその後現在の歌詞に戻されたそうです。
この歌が発表された1954年はフランスの現代史でも重要な年
この曲が発表された1954年という年はフランスの現代史の中でも、インドシナ戦争で敗北し、アルジェリア戦争が始まったという二つの意味で重要な年でした。
インドシナ戦争での敗北・・・フランスは、19世紀後半からベトナムを含むインドシナ半島の植民地化を進め、1885年の天津条約によってベトナム全土を植民地化して以来この地域を支配していました(ただし、第二次世界大戦中は日本との共同支配体制でした)。しかし、第二次世界大戦で日本が敗北した翌年の1946年には、「ベトナム独立同盟」(通称は「ベトミン」、現在のベトナム政権の母体)とフランスとの間の「インドシナ戦争」が始まりました。この戦争は8年間続きましたが、1954年5月7日にフランスがディエン・ビエン・フーで決定的な敗北を喫したため、同年7月のジュネーブ停戦協定で、ベトナムは独立を達成して、フランス軍はベトナムから撤退することになりました(ただし、その後米国が介入したため、ベトナムが真の独立を達成したのは「ベトナム戦争」で米国が敗北した21年後の1975年でした)。
アルジェリア戦争の勃発・・・フランスは1830年以来アルジェリアを植民地化していましたが、1954年の南北ベトナムを含むインドシナ4国の独立に力づけられたフランスの全植民地・海外領土の現地住民による独立運動が活発化し、アルジェリアでは民族解放戦線(Front
de libération nationale、FLN)が1954年に組織され、同年11月1日に一斉蜂起を開始しました(ちょうどカトリック教会の祝日である「諸聖人の日」だったため「赤い諸聖人の日」と呼ばれています)。アルジェリア戦争は1962年まで8年間続き、両軍の戦死者は20万人を上回り、フランス社会に深い傷痕を残しました。
政治問題化して放送禁止になった
この歌は発表後間もなくコンサートで歌われると「反愛国主義的」であるという理由で冷笑や口笛による妨害行為が活発化しました。またこの歌と直接関係があるのかどうか分かりませんが、社会全体で反戦気分が高まっており、発表から7カ月後の1954年9月11日には、600人の空軍再招集兵がパリのリヨン駅でアルジェリアに向かう兵士を乗せる列車への乗車を拒否するという事件が起きました。1955年に入ると兵の召集が行われるたびごとに敵対的な行動や激しい暴動が起こり、10月8日には、ルーアンのリシュパンス兵営に集結した406高射砲連隊の兵士が動員を拒否するなど、反戦運動はますます活発化し、「アルジェリアの秩序維持」派にとって「脱走兵」というシャンソンは格好の攻撃対象となったようです(マルク・デュフォー著、『ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌』(国書刊行会)、140、146ページ)。
1955年1月には、この歌をラジオで聞いてショックを受けたとする、セーヌ県会議員のポール・ファベールが、この歌の放送の禁止をセーヌ県に求めました。ボリス・ヴィアンは2月1日には「ポール・ファベール氏に対する公開状(Lettre
ouverte à Monsieur Paul Faber)」をフランス・ディマンシュ紙に公表するよう依頼しましたが、この手紙が公表されたのは同氏の死後になってからでした。結局1958年に、この曲のラジオ放送とこの曲の販売がフランス全土で禁止され、ボリス・ヴィアンもこの曲の最初のバージョンの楽譜の印刷を出版社から拒否されました。この禁止措置はアルジェリア戦争が終わる1962年まで続きました(この部分はWikipediaの"Le
Déserteur"の項を参考にしました)。 東京日仏学院(現、アンスティチュ・フランセ東京)のシャンソンのクラスの先生(おそらく、1995年頃に教壇に立たれていた M.
J. Sévery先生)からお聞きしたお話によれば、フランスで全国的に放送禁止になったシャンソンは「脱走兵」だけだろうとのことでしたがこの点については確認できていません。
約40カ国語に翻訳され、数百人の歌手によって歌い継がれている
1958年からラジオ放送とレコードなどの販売が禁止されたため、その後このシャンソンはフランス国内では一時的に忘れられることになりました。この歌がよみがえったのは、1965年にアメリカでの反戦運動の際にピーター・ポール&マリー(PPM)というフォーク・トリオの1人、ピーター・ヤロウ(注)がムルージ版(ムルージの助言のままのバージョン)を「平和主義者」というタイトルを付けて、まず英訳を読み上げてから、3人でフランス語版を歌ったためだそうです。さらに、「集会のたびに、シットイン(座り込み)のたびに、「平和主義者」の歌声は、1960年代末の平和主義大行進の不可欠のスローガン、「メイク・ラブ・ノット・ウォー」とおなじくらい力強く響き渡った。PPMは彼らの最初のライブ・アルバムにこの歌を入れた」そうです(『ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌』、176ページ)。
(注)PPMのメンバーの名前は当初は「ポール・トラヴァース」と記載していましたが、2023年4月にある読者の方から、PPMには「ポール・トラヴァース」というメンバーはおらず、「ピーター・ヤロウ」のことだろうというご指摘をいただきましたので、You tube のPPMのLe Deserteurの演奏の声と、PPMによるHangmanという曲の演奏でのピーター・ヤロウの独唱部分の声を比べてみましたところ、ご指摘の通り、歌っていたのはピーター・ヤロウであることが確認できましたので訂正させていただきました。私が最初「ポール・トラヴァース」と書いたのは、『
この歌はその後、セルジュ・レジアニ(Serge Reggiani、1922-2004)、ジュリエット・グレコ(Juliette Gréco、1927-
)、ジョニー・アリディ(Johnny Hallyday、1943- )、マキシム・ル・フォレスティエ(Maxime Le Forestier、1949-
)、などのシャンソン歌手やジョーン・バエズ(Joan Baez、1941-)などのフォーク歌手が歌いました。日本では、フォーク・シンガーで、「受験生ブルース」などのヒットがある高石友也(1941- )がこの歌を翻訳して「拝啓大統領殿」というタイトルで1968年に歌いました。日本では、その他1988年には小山卓治(おやま
たくじ、1957- )が、1990年には沢田研二(1948-)が歌いましたが、沢田研二はいまだに歌い続けているそうです。(https://www.youtube.com/watch?v=wkn8mbTju7U youtubeの画面をそのままにしていると次に流れてくる「我が窮状」も印象的です。久しぶりに沢田研二さんを見ましたが、日本の元大歌手としては珍しくいい年の取り方をしていると思いました。)2011年8月11日付Figaro紙の「Le
Déserteur de Boris Vian」という記事によれば、この歌は約40カ国語に翻訳され、数百人の歌手によって歌われているそうです。
脱走兵 ボリス・ヴィアン作詞、ボリス・ヴィアン、ハロルド・バーグ作曲、1954年発表 |
Le Déserteur (les paroles de Boris Vian et la musique de Boris Vian et Harold Berg, publiée en 1954) |
大統領閣下 お手紙を差し上げます 時間があれば たぶん読んでいただけるでしょう |
Monsieur le Président Je vous fais une lettre Que vous lirez peut-être Si vous avez le temps |
私はただ今受け取りました 水曜日の夜までに 戦地に発てという 私あての召集令状を |
Je viens de recevoir Mes papiers militaires Pour partir à la guerre Avant mercredi soir |
大統領閣下 わたしは戦争をしたくありません 哀れな人々を殺すために 私は生まれてきたのではありません |
Monsieur le Président Je ne veux pas la faire Je ne suis pas sur terre Pour tuer de pauvres gens |
あなたを怒らせるつもりはありませんが あなたに申し上げねばなりません 私は決心しました 私は脱走します |
C'est pas pour vous fâcher Il faut que je vous dise Ma décision est prise Je m'en vais déserter |
この世に生をうけて以来 私は父が死ぬのを見ました 私の兄弟たちが出征するのを見ました そして私の子どもたちが泣くのを |
Depuis que je suis né J'ai vu mourir mon père J'ai vu partir mes frères Et pleurer mes enfants |
私の母はあまりに苦しんだので 今は墓の中にいます そして爆弾にも平気です ウジ虫にも平気です |
Ma mère a tant souffert Qu'elle est dedans sa tombe Et se moque des bombes Et se moque des vers |
わたしが捕虜だった時に わたしは妻を盗られ 私の魂を奪われ そして私の大切な過去のすべてを |
Quand j'étais prisonnier On m'a volé ma femme On m'a volé mon âme Et tout mon cher passé |
明日の朝早く 失われてしまった年月に きっぱりと別れを告げ 私は旅に出ます |
Demain de bon matin Je fermerai ma porte Au nez des années mortes J'irai par des chemins |
私は物乞いをして暮らすでしょう フランスの街道筋で ブルターニュからプロヴァンスまで そして私は人々に言うでしょう |
Je mendierai ma vie Sur les routes de France De Bretagne en Provence Et je dirai au gens |
従うことを拒否するんだ 戦争を拒否するんだ 戦場に行ってはいけない 出征を拒むんだ |
Refusez d'obèire Refusez de la faire N'allez pas à la guerre Refusez de partir |
もし血を捧げなければならないのなら あなたの血を捧げなさい あなたは偽善者だ 大統領閣下 |
S'il faut donner son sang Allez donner le vôtre Vous êtes bon apôtre Monsieur le Président |
もしもあなたが私に追っ手をかけるなら 憲兵たちに伝えるるがいい 私は武器をもっていない 発砲してもかまわないと (翻訳は浜本正文氏によるもので、同氏が翻訳したマルク・デュフォー著、「ボリス・ヴィアンと脱走兵の歌」(国書刊行会)に載っていたものを使わせていただきました) |
Si vous me poursuivez Prévenez vos gendarmes Que je n'aurai pas d'armes Et qu'ils pourront tirer |
歌詞は12の段落全てが「4行詩」となっていて、全ての行が6音節から構成されている
この歌を聞くとスローバラード調であるにもかかわらず、非常にリズム感があることが分かります。それは非常に厳密なルールに基づいて歌詞が構成されているためです。まず12の段落それぞれが4行詩(quarantain)となっています。しかも全ての行が6音節(hexasyllabe)であることがリズム感につながっていると思います。ただし、第9段落2行目の"Sur/les/routes/de/France"は、辞書で音節数を調べると、スラッシュで示しましたように、5音節となりますが、発音しないFranceの最後の無音の"e"が歌詞の場合には有音となり[∂]「ウ」と発音することがあり、その場合は6音節と数えることができるようです。
「脱走兵」というタイトルはフランス語では「脱走する人」という意味の"le déserteur"です。脱走するという動詞はフランス語ではdéserterで、砂漠のdésert(デゼールと発音し、メインディッシュの後に出されるデザートはフランス語ではデセール[dessert]
と、にごらないことはよくご存じのことと思います)と同様、放棄するという意味のラテン語desertusが語源となっています。動詞のdéserterの語幹に「・・・する人」を表す接尾語-eurを追加したのがdéserteurです。
「召集令状」といっても「派遣命令書」のようなもの
この歌詞で一番問題になるのは、フランス語では第2段落最初のJe viens de recevoir/Mes papiers militairesだと思います。上で紹介した浜本正文氏による翻訳では、この部分を「私はただ今受け取りました・・・私あての召集令状を」とされています。「召集令状」と聞くと、日本の第二次世界大戦末期の民間人の召集令状(赤紙)が連想されますが、広辞苑によると、召集令状とは「在郷軍人を招集する命令書」とされていて、「在郷軍人とは、平時は民間にあって生業につき、戦時・事変に際しては、必要に応じて招集され国防に任ずべき予備役・後備役、帰休兵、退役などの軍人」とされているため、普通の使い方では召集令状で召集されるのは兵士のようです。
仏和辞書の papiers militaires の項には「軍籍[兵役]証明書、軍隊手帳」という訳が載っています。一方、「召集令状」を和仏辞典で調べると、"ordre
d'appel"と"convocation militaire"が出てきました。従って、papier militairesは兵士に対する「派遣命令書」のようなものではないかと思います。また、第5段落の最初に「私が捕虜だったとき"Quand
j'étais prisonnier"」と書かれていることから、この主人公は兵士だったことが分かります。prisonnier は囚人という意味で使われることが多いと思いますが、捕虜という意味もあって、文脈から考えて捕虜と考えた方がいいようです。
日本でも法律改正によって自衛隊員から「脱走兵」が出る可能性も
兵士が脱走するのは、徴兵制などの制度によって、危険な場所に行ったり、人を殺すことを強制されるためです。日本では自衛隊員は、従来は除隊すれば命令に従う必要はなかったようですが、2016年に自衛隊法が改正され、防衛出動命令を拒否すると7年以下の懲役または禁固刑に処せられるようになりました。戦地に向かわずに懲役または禁固刑を逃れるためには、命令を受ける前に自衛隊をやめるしかないようです。
国民を強制的に兵士として徴用する「徴兵制」は戦前の日本でも実施されていて、戦後もアメリカでは1973年まで、フランスでは2001年まで実施されていました。現在でも、スイス、韓国、北朝鮮、イスラエルなどで実施されています。安倍政権の狙いも徴兵制にあると言われています。徴兵された場合には、強制的に敵を殺す任務に就くことが求められ、人は殺したくないと思っても、人殺しをやめることはできなくなります。そこで脱走を考えるわけですが、「徴兵制」のある国では、脱走して捕まった場合には、非常に重い罰則があるのが普通で、死刑になることもあります。そのため、脱走するというのは大変な勇気が必要な行動だったわけです。
ヴィアンの生涯・・映画『墓に唾をかけろ』の試写会で心臓発作を起こしてそのまま他界
ボリス・ヴィアンは1920年3月10日にパリの南西郊外のヴィル=ダヴレー (Ville-d'Avray)に生まれました(「レ・コルニション」のご紹介のときにもご登場いただいた、フランスに長年お住まいだったKさんによれば、1962年に公開されたフランス映画「シベールの日曜日」はこの街で撮影されたそうです。またこの映画の原作は『ビル・ダヴレイの日曜日』だそうです)。エコール・サントラル・パリ(École
Centrale Paris、フランスの工学・技術系エリート養成のための公立高等教育機関で、グランゼコールの一つ)を1942年(22歳)に卒業して土木技師の学位を取得、フランス標準化協会に就職しましたが、閑職でひまをもてあましていたようです。1946年(26歳)には、ヴィアンが書いたにもかかわらず、ヴァーノン・サリヴァン(Vernon
Sullivan)というアフリカ系米国人の作品をヴィアンが翻訳したものとして発行されたハードボイルド小説の『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』が大当たりしました。ただ、Wikipediaによれば「大衆からは好評を得たが、俗悪な暴力小説として糾弾されて裁判沙汰に発展するなど、作品としての評価以外でセンセーショナルな名を売った。結局裁判に敗訴したヴィアンは、『墓に唾をかけろ』の発行部数(10万部)に比例して、10万フラン(1945年のブレトンウッズ協定でのレートで換算すると30万円)の罰金を科せられてしまう。」そうです(ただし、正確な発行部数はこれよりもかなり多く、下で紹介する『日々の泡』曽根元吉訳、新潮文庫の後書きには、発売の4カ月後までに30万部売れたと書かれていますが、『ボリス・ヴィアン、その並行的人生』ノエル・アルノー著、浜本正文訳によれば、100万部売れたという報道もあったそうです)。
この作品は映画化されましたが、ヴィアンはその出来映えに強い不満を持ち、大動脈弁閉鎖不全症という重い心臓の持病を持っていたこともあって、1959年6月23日(39歳)にこの映画の試写会で心臓発作を起こしてそのまま亡くなりました。Wikipediaによると、最後の言葉は「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか? 馬鹿にしやがって!」だったようです。映画を見ると、当時のアメリカが西部劇の時代と大差ない野蛮な世界に描かれていて、これがジャズのトランペット奏者で、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーの小説を2冊翻訳するほどのアメリカびいきのヴィアンを激怒させたのかもしれないと思いました。
小説『日々の泡(L'Écume des jours)』について
ボリス・ヴィアンは何編かの小説を書きましたが、小説『墓に唾をかけろ』が有名になりすぎたため、きわもの作家であるという評価が定着して、その他の小説は生きている間には全く評価されませんでした。しかし死後になってヴィアンの小説『日々の泡("L'Ecume
des jours"「うたかたの日々」というタイトルに訳されていることもあります。うたかたは水の上に浮かぶ泡という意味です)』が高く評価されるようになりました。それは小説家のレーモン・クノー、シモーヌ・ド・ボーボワール、ジャン=ポール・サルトル、ジャック・プレヴェール、ジャン・コクトーなどがこの小説を高く評価したためでした。レーモン・クノー(1903-1976、代表作は『地下鉄のザジ』)は『日々の泡』について、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」と述べ、シモーヌ・ド・ボーボワール(1908-1986)は回想録の中で次のように絶賛しているそうです(曽根元吉訳の新潮文庫版の後書きから引用させていただきます)。
「―私はこの小説がたいへん気に入った。とくに肺の中に睡蓮を咲かせて死ぬクロエの悲しい物語が好きだ。ヴィアンは彼だけの世界を創造した。それはめったに見いだせないことであり、私を常に感動させる。最後の2ページは胸をしめつけられるようだ。十字架との対話は、カミュの『誤解』における《ノン》に匹敵する。しかもあれ以上に控え目で、また説得的だ。私がすばらしいと思うのは、この小説の真実さであり、その深い優しさである。」(朝吹登水子・二宮フサ共訳『ある戦後』上)[ちなみに、最後の2ページは、はつかねずみの自殺の話です]
そのため『日々の泡』は現代フランス文学を代表する文学作品の1つとなっています。この小説の特徴は少し読むと、非現実の世界であると分かるにもかかわらず、正に「仮想現実」の世界で、登場人物に深く共感できるという点だと思います。
主要な登場人物は2組のカップルで、20代位の男性「コラン」とその恋人「クロエ」、コランの友人の「シック」とその恋人「アリーズ」で、4人とも物語の最後までには死んでしまいます。
また、ジャン=ポール・サルトルが、ジャン=ソオル・パルトル(Jean-sol Partre)として、シモーヌ・ド・ボーボワールがボヴゥアール公爵夫人(la
duchesse du Bovouard)として登場します。サルトルとヴィアンは一時親しくしていましたが、後にヴィアンが実存主義や政治的参加思想(アンガジュマン)に異論を唱えただけでなく、ボリスと別れたばかりの恋人ミシェルがサルトルの愛人になったこともあって、2人は仲たがいをしました。この小説の中では、恋人のシックがパルトルの本や関連グッズを見境なく買うため破産状態になったアリーズが、これ以上本や関連グッズを買えなくするために、パルトルの胸部に「心臓鋏(l'arrache-coeur)」を突き立てて殺してしまいます。
この小説は何度も映画化されており、最近では2013年に最新のCG技術によって非現実の世界の映像化に成功したフランス映画『ムード・インディゴ -
うたかたの日々』があります。この本の英訳の1つのタイトルがなぜか「ムード・インディゴ」であるため映画もこういうタイトルになったようです。「ムード・インディゴ」は「クロエ」同様、元々はデューク・エリントンが作曲した曲の曲名です。日本でも2001年に『クロエ』(コラン役は永瀬正敏、クロエ役はともさかりえ)というタイトルで映画化されましたが、両方とも小説の雰囲気が良くでていると思いました。(2017年2月10日)
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