いまむら瞭さんの「ラッツォの晩餐」という歌は「間接的記憶」の芸術

シンガー・ソングライターのいまむら瞭(りょう)さんが作詞・作曲された「ラッツォの晩餐(ばんさん)」( https://www.youtube.com/watch?v=k2bToumYoEw )という歌を、数年前に初めて聞いたときに涙が止まらなくなりました。歌われていたのは本業はピアニストですが、弾き語りも大変味わい深い豊嶋裕子(としま・ひろこ)さんでした。この曲では、ラッツォという名前の偏屈で孤独な老人の波乱に満ちた人生が描かれています。ラッツォは、素性の知れない置屋の娘(この言葉については歌詞の下の注1をご参照ください)と結婚しましたが、30年経ったある日、その妻は男ができて「ぷいと」出て行ってしまいました。しかし、妻はその後相手の男に逃げられ、食うや食わずの暮らしとなり、やがて死んでしまったことを風の便りに知ったラッツォは、一度も 愛していると言わなかった事をずっと悔やんで、妻が育てていた草花を育て始めました。二人が結ばれたのが終戦直後という時代設定であるため、団塊の世代に属していて終戦直後の記憶がかすかに残っている私や私より上の世代にとっては、かなり身につまされる歌だと思います。しかも歌はラップ調である点が新鮮でした。

この老人の名前がイタリア人っぽい「ラッツォ」なので、なんとなくイタリア人男性の生き方を連想させます。ネットで「ラッツォ」を調べてみると、1969年に公開されてアカデミー作品賞を受賞したアメリカ映画、「真夜中のカーボーイ」の主人公の1人でダスティン・ホフマンが演じたニューヨークの最底辺のイタリア系とみられる若者の名前がやはり「ラッツォ」でした。ラッツォは、寒いニューヨークを離れて暖かいマイアミに行くことを夢見ていましたが、病魔に冒されます。相棒のジョーはゲイの紳士から強奪した金で、ラッツォをマイアミに連れて行くことにして、長距離バスのグレイハウンドで二人でフロリダに向かいましたが、ラッツォはマイアミに到着する直前に、ジョーに寄り添うようにして死んでしまいました。この映画のラッツォも、この曲のイメージに重なるところがあると思いました。ただ、いまむらさんに直接、「ラッツォ」という名前を選ばれた理由をお聞きしたところ「ラッツォは何となく浮かんできた名前で何の意図も必然性もありません」とのお話でしたので、単なる私の思い込みだったようですが、いまむらさんの潜在意識の中でこの映画の記憶が関係していた可能性もある気もします。

この歌に登場するラッツオの方は、歌詞に「敗戦の焼け跡に 廃材集めて建てた家で、素性の知れない置屋の娘と暮らし始めた」とあることから、1945年の敗戦の頃に20歳~30歳くらいだったという設定とみられます。つまり1915年~1925年頃の生まれで、現在生きていれば、98歳~108歳位の老人ということになります。そのため、1954年生まれで現在68歳のいまむらさんよりも30歳~40歳くらい年上ということになります。

いまむらさんが、1世代上の男性を歌ったこの曲をはじめ、戦中世代が主人公になった多数の曲を作詞・作曲できたのは、40歳すぎから20年間ほど(いまむらさんは1954年生まれのため、フォークブームが下火になった後の1994年から2014年頃まで)介護のお仕事をされていたことがあり、その際に巡り合った方々から聞かれたお話がベースになっているためだと、いまむらさんもおっしゃっています。この曲は2003年に発売された「媼(おうな、老女)と翁(おきな、男の老人)のピロートーク」というCDに収録されていますが、このCDには、ラッツォの晩餐以外にも、老人が主人公になった歌が多数収録されています。例えば、「びりけつのジュン」は、子どもの頃いたずら小僧だったものの、のろまだったため逃げ遅れていつも叱られていた弟のジュンは、出征して(つまり戦争にかり出されて)「終戦を随分過ぎてから(戦地から)戻り、亡霊みたいに玄関に突っ立って、相変わらずビリだねってみんなで泣いた・・・その後50年間、(語り手の)姉との二人暮らしだった・・・が、この頃ジュンは子どもに還り、あたしもわすれそうだね、・・・先にジュンをみおくってからあたしの番だと思っていたけど、都合良くはいかないものね、独りでちゃんとくらすのよ・・・人を押しのけずに生きてきたあなたを神様がきっとまってる、でも、ビリでいいよ、ジュン」と、先立つことになりそうな姉は、認知症になりかけた弟に語りかけます( びりけつのジュン『Jun You’re Always the last one』/Ryo Imamura https://www.youtube.com/watch?v=qgm8ISuA1wU というこの動画も、曲の雰囲気がよく出ていて、すばらしいと思いました)。


「ラッツォの晩餐」 作詞・作曲/いまむら瞭

むせるような緑、生い茂る庭
ビルの隙間に 取り残された 聖地
隣の壁に支えられて 持ちこたえた屋根
孤老の主、ラッツォも生きる時代 間違えた男
  敗戦の焼け跡に、廃材集めて建てた家で
  素性の知れない置屋の娘注1と 暮らし始めた
  同居の兄弟や近所の噂、 気にも留めず
  人の世話にはなりたくねぇ、 が口癖
ラッツォは染め物職人として 働き
妻は狭い庭に ありとあらゆる花や野菜、育てた
親の愛を知らない女と 偏屈な男
変わりゆく時代に 取り残されてゆく
  一汁一菜のラッツォの晩餐 語るでもなく 妻と2人
元より、風のような ぶっきらぼうな女だった
30年経ったある日、ぷいと 出て行った
男が居たと聞かされても、何食わぬ顔で暮らし続けたけれど
一度も 愛していると言わなかった事、ずっと 悔やんでた
  薄情な兄弟も去り、 やがて妻の死を 風の便りに聞いて
  弔って家に帰ると、声を殺して 泣いた
  僅かの間に変わり果てた姿、男が逃げた後は
  喰うや喰わずの 暮らしだったとか
ラッツォは口癖のように、誰の世話にもならず
妻が放り出した 草花を育て始めた
老いた眼は光失い、足は萎えてゆくけれど、けれど、
日に々に、茂りゆく屋根
  一汁一菜のラッツォの晩餐 枝を漏れて 月の光
Holy Razzo. ひとり生きて ひとり逝く
  愛を託す者も無い 神だけが、辿り着く家
Holy Razzo. 月に輝く聖地に
ただ独り暮らし続けて何も求めない微笑みが愛 Holy Razzo

※リフレイン

(歌詞カードではなく、いまむらさんから直接お送りいただいた
歌詞を、お許しを得てコピーさせていただきました)

注1:置屋(おきや)は、芸者や遊女(売春婦)を抱えている家のことで、料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や遊女を差し向ける一種のサービス業でした。1956年に売春防止法が施行されるまでは、売春は一定の条件の下で公認されていたため、実質的には売春斡旋屋でした。置屋の娘とは、その経営者の娘なのか、売春婦なのかはっきりしませんが、「素性の知れない」とされているため、売春婦であった可能性が高いとみられます。


「間接的記憶」に基づいて戦中世代の生活世界を再構築した点は、ノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノと共通している

「ラッツォの晩餐」も「びりけつのジュン」も、主人公の人柄が生き生きと伝わってくるだけでなく、お世話した高齢者に対するいまむらさんの深い思いやりが感じられることが、聞く者の感動につながると思います。フランスのパトリック・モディアノという小説家は、その作品が「最も捉えがたい人々の運命を呼び覚まし、(ナチスドイツによる)占領下の生活世界を明らかにした記憶の芸術」であるという理由で2014年にノーベル文学賞を受賞しましたが、1945年生まれのモディアノは戦後世代に含まれ、自らには戦時中の記憶はありません。そのため、ユダヤ人である自分の経験や父親や知人から聞いた話や取材の結果から、戦時中のユダヤ人の生活を再構築したという意味で、「間接的な記憶」の芸術と言われています。いまむらさんが作詞・作曲された歌の多くも、いまむらさんがお世話された高齢者のみなさんから直接お聞きになったお話がベースになっていて、これらの人々の話を熱心に聞き取って、深い思いやりに基づいて生活世界が再構築されている点が共通しているため、やはり「間接的記憶」の芸術と呼べると思いました。

フォークシンガーの高田渡さんから「今村君の歌は、必ず2番があるね」と指摘される

いまむらさんは福岡で1954年に生まれました。高校時代に友人と3人でフォークソングのグループを結成してオリジナル曲を作り始めましたが、山口大学教育学部に在学中に音楽活動を本格化して、フォーク界の重鎮であった高田渡さん(1949~2005、2005年4月に北海道白糠町でのライブ終了後に倒れ、翌日釧路市の病院で心不全のため他界されました。享年56歳、代表作は「自衛隊に入ろう」)の前座として4~5カ所で歌われたことがありました。その公演の何日目かに、高田渡さんから「今村君の歌は、必ず2番があるね」と言われたことがあったそうです。この言葉からいまむらさんは「詩を歌わないとだめだ。」ということを痛感されたそうです(おそらく、2番とか3番とか、詩の内容を少し変えただけで繰り返すと、詩としては価値が薄れると高田さんは考えられたのではないかと思います)。「詩の内容がつまらないと、歌は楽曲がすばらしくない限り、すぐすたれてしまうということを教えてもらった。さらに、40になっても50になっても歌える歌詞、曲をつくらなければならないと思って励んできた。やっぱり残る歌をつくらなくちゃ。自分の音楽人生はつまらないものになってしまう」と考えられたそうです(音楽評論家の富澤一誠氏(いっせい、1951~)との対談でのお話)。こうした長年の努力が、その後発表された、素晴らしい詩と曲の組み合わせとして結実しているのではないかと思います。

また、いまむらさんはその後大学を中退して、東京に移られました。東京では当時「シャンソンの殿堂」と言われた「銀パリ」で聞いた金子由香利(ゆかり)さんの影響を強く受けたそうです。1986年にはさだまさし事務所主催のシンガー&ソングライター・コンテストで優勝されましたが、その後発表され、初のメジャーデビューとなった「ビアホール」(1996年発売)にはシャンソンの影響が強く表れています。

これまでの音楽活動の集大成ともいえる「RYO's Works」

いまむらさんは2016年に脳梗塞を発症されましたが、幸いその後順調に回復して活動を再開されました。この病気がきっかけとなって、それまでに作ってきた曲をまとめて発表したいと考えられるようになったそうです。その結果生まれたのが、2022年に発表された「RYO's Works」というアルバムです。そのためこのCDはいまむらさんの、これまでの音楽活動の集大成とも呼べるのではないかと思います。また、このCDではいまむらさんの歌を、いまむらさんだけでなく、溝端由子(みぞばた・ゆうこ)さん、花木さち子さん、2016年大阪ヴォーカルコンクールで グランプリを受賞し、女優でもあり、溝端由子さんのお嬢様でいらっしゃる溝端育和(やすな)さんも歌われているのも特徴です。

例えば、収録されている「斜陽」という曲は、歌詞の下に書かれている説明によれば、22歳(1976年)頃に作られた曲で、後に「若き哲学者」と言われた斉藤哲夫さん(1950~)が歌われたそうです(1980年に発売された「いつものようにミュージック」という斉藤哲夫さんのCDに収録されています)。こんな曲を22歳のときに作られていたとは驚きです。ちなみに、歌詞の最後の「骸」(むくろ)は「なきがら」という意味です。

私は個人的にはこのCDの中では「森へ」が一番好きです。歌われている溝端育和(やすな)さんの声もすばらしく、メキシコのハープであるアルパの奏者で、いまむらさんのお嬢さんである今村夏海(なつみ)さんが演奏されるハープだけの伴奏との組み合わせが、曲のイメージとぴったりだと思いました。いまむらさんは10年以上前から植林の活動を続けてこられましたが、これはその経験に基づいた曲で、2010年に書かれたそうです。

また一番泣けてくるのは花木さち子さんが心を込めて歌われている「眠らない花」です。歌詞の下に書かれている説明を一部コピーさせていただきます。「僕の会報に感想など書き送ってくださっていた抽象木彫刻の先生。奥様がご病気になられた時、残された時間をふたりで大切に過ごしたいと実家に戻られたそうです。奥様が育てられていたクリスマスローズも根付いて花を咲かせてくれたので、奥様の棺を飾って見送ったとの手紙をいただきました。何年か後、先生のご自宅を訪問しましたところ、クリスマスローズは庭いっぱいに咲いていました。・・・2011年のライブで花木さち子さんに創唱していただきました。その日から10年経った花木さんの歌は綿密でドラマチック、作家冥利に尽きる歌へと成長させてくださっています。」


お人柄が分かるエピソード

いまむらさんは、大変控えめな方で、いったんステージを降りると、シンガー・ソングライターというよりも気のいい近所のおじさんという感じの方でした。これは元々のお人柄に加えて、介護のお仕事をされていた経験にもよるのかなと思いました。2023年4月のコンサート会場で「媼と翁のピロートーク」というCDを購入した人に、「媼と翁のピロートーク・・・いまむら瞭 エッセイ集」という小冊子を配布されていたのですが、私はすでにCDの方は持っていたので、エッセイ集だけを販売はしていないのか担当の方にお聞きしたところ、販売はしていないとのことでした。その後、ホームページの関係で、ぜひこのエッセイ集を入手したいと思い、いまむらさんにメールを差し上げると、なんと無料で送って下さいました。そのエッセイ集に、いかにもいまむらさんらしいお話が載っていましたので、最後にちょっと長くなりますが、いまむらさんのお許しを得てコピーさせていただきます。


君は僕の小石 --- 2002.7 ---

 埼玉でステージを終えて、池袋に着いた時は7時を過ぎていた。
 8キロ強のギターケースと衣装と荷物を抱えて人波をかき分ける。これからどうしても行かなければいけない所がある。時間が無くて、焦る気持ちでバスを待つ人の列に並んだ。
 バス停脇の植え込みの柵に座った若い男性が目に入った。バスに乗る様子はなく、誰かを待っている様子でもない。バス待ちの行列から顔をそらして、なにやら靴を脱いで拭っている。股間のあたりから膝下までズボンが濡れていた。

 一千万人以上の人間が暮らしている東京。思い掛けないところで、思い掛けない事に出くわす事がある。思い掛けないい場面が目に飛び込んできたりする。飲み過ぎで思わず失禁、という話も聞いたことがある。

 彼は20代半ばのようだった。さぞかし情けない思いをかみしめている事だろう。気の毒なので後ろを向いて、良い大人なんだから自分で何とかしろよ、という気持ちでバスの来る方を見遣るがまだバスは来ない。行列も次第に長くなってきた。

 その時、風が吹いた。風とともに彼の匂いがした。糞尿の匂いだった。下痢は急激に来る事がある。つくづく気の毒である。心の片隅で声を掛けようか、と言う気持ちもあるが、こんな所でどうしようもないよ、小川でもあればトイレでもあればいいが、そんなものもないし、第一そんなことに関わりあっていたら今から会うべき人にとても失礼な事をしてしまう。申し訳ないけど、今は駄目、と目の前の事件を片付けてしまっていた。一刻も早く目的地に行きたい。バスはまだ来ない。

 背中に携帯電話の声が聞こえた。彼だった。
 『あ、もしもし、かあさん? 今池袋に居るんだけど、大変なことになっちゃって、動けないの・・・今何処に居るの? 来て。・・』

 母さんに電話? 情けない奴だなぁ、と思わず呟く。そんな事よりバス・・・・・。
 来た。間に合う。
 ギターケースと荷物を抱え込む。

 『うん、移動しようとしているところで外れちゃったらしくて、うん、動けない、うん、ズボン・・・・』

 行列が動き出して、僕は用意していた200円を呆然(ぼうぜん)と放り込んでいた。
 今、彼は外れちゃった、と言っていた。なに? 何か外れたのが原因で? 思いもよらなかったが、ひょっとして人工肛門というもの?
 彼の事で、そして自分のことで頭がいっぱいになった。なぜ、声を掛けなかったのか。
 バスは動き出した。
 考えれば、どうにでも彼をあの場から助けられた筈である。よくよく考えれば、僕のバッグにはステージ衣装のズボンだって入っていた。自分で思い浮かばなくても、あれだけの人が居たのだから何か知恵が浮かんだ筈である。

 この4年近く、高齢者の手助けになればとヘルパーの資格を取って介護支援をして来たのは、あれは何?
 俺は何やってんだ?
 情けない思いをかみしめて池袋の夜景がぼんやりと過ぎてゆく。
 心の中に一つ、こつんと突っかかる小石を増やしてしまった。

RYO PRESS 39号(平成十四年七月十日)


自分が同じ立場になったとしたら、とてもこれほどの注意力と思いやりを持てたとは思えません(2023年6月16日、ブルームズデイ)。


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