問題91(報道)の答え・・・大歓迎されたのは、(c. 日本人の記者はすでに全員避難していた)ためだったそうです。

住民より先に全員が逃げ出した記者クラブ所属の日本人記者

南相馬市の桜井市長は、市役所内に常駐しているはずの新聞、テレビの記者が全員退去してしまったため、やむなくユーチューブで、2011年3月24日に撮影されたSOSのメッセージ(SOS from Mayor of Minami Soma City, next to the crippled Fukushima nuclear power plant, Japan )を発信したようです。『「本当のこと」を伝えない日本の新聞(以下では「同書」と表記)』の40ページから、市長のメッセージの一部を引用させていただきます。ご覧いただければ分かりますが、英語の字幕付きです。


「南相馬市は、福島第1原発から北に25キロほど離れた場所にある。福島第1原発から20―30キロ圏内は屋内退避地域だ。約5万人の市民は全国各地に避難したが、2万5,000人の市民がまだ南相馬市内に残っている。コンビニやスーパー、食料品店や金融機関は閉まったままで、物資の調達が難しい状況にある。ガソリンが不足しているため、物資を運ぼうにも移動手段がない。被爆を恐れた外部の業者は、南相馬市への物資輸送を拒否している----市民にとっては兵糧攻め(ひょうろうぜめ:引用者追記:敵の食料補給路を断って戦力を弱らせる攻め方)的な状況に置かれています」


ファクラー氏は、南相馬市役所を訪問したときの様子を次に紹介しています(同書の41―43ページ)。


『南相馬市役所へは、事前のアポイントを取らずに向かった。役所に着くなり、職員から「ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞ中へ!」と大歓迎され、桜井市長自らが「よく来てくれました」と迎え入れてくれた。なぜこんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべての疑問が氷解した。南相馬市の窮状を世の中に伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。

南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。
「日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった」・・・・

旧ソ連のチェルノブイリ以外に前例のない規模の原発事故が起きている最中、2万5,000人もの住民や市職員が南相馬市に残っていた。農地や自宅を放棄して避難することには、誰だって躊躇する。老人ホームで暮らすお年寄りは、たとえ逃げたくても容易には避難はできない。桜井市長や市職員には、市民を守るという大きな責任がある。

市長と話しをしながら「自分はここで死ぬつもりだ」「最後の1人になるまで南相馬市に残る」というすさまじい気概を感じた。南相馬市を取材した記事は2011年4月7日付のニューヨーク・タイムズ一面で大きく掲載された。・・・桜井市長は悲壮なる覚悟で戦う町長として世界的に有名な人物となった。

私が記事を書いた時点ではユーチューブの動画再生数は20万件程度だった。ニューヨーク・タイムズの記事が出た直後、ユーチューブの再生数はあっという間に100万回を越えた。

記者クラブを拠点にする日本人の記者は、市長や市職員、多くの住民がまだ暮らしているにもかかわらず、南相馬市から逃げ出してしまった。普段は記者クラブを拠点として役所の情報を独占しているのに、最も肝心なときに取材を放り出してしまったのだ。』


国民を無知な状態に保つための最強の武器が「記者クラブ」制度 --- 読者ではなく、ニュースソースのための報道

「記者クラブ」というと、親睦会のような印象を受けますが、「実態は、警察署をはじめとする、官公庁、大企業などで、「記者室」を提供され、事務職員(公務員または嘱託職員)の派遣、電話、ファックスなどの便宜供与を受け、メンバー以外のメディア記者を排除していると批判されている。・・・・部屋をただで借り、様々な便宜供与を受けているから、当局の意のままになる。」『メディア・ファシズムの時代』(277ページ)そうです(問題27(報道)答えからコピーしました)。

便宜を提供している側としては、(1)好きな時に自分たちが報道してほしいことを報道してくれる、(2)自分たちに都合のいい情報だけを報道してもらえる、(3)自分達に都合の悪いニュースが明らかになっても、記者クラブ所属の報道機関は、それを無視するか、都合のいいように内容をねじ曲げて報道してくれることを期待しているようです。

また、記者クラブに所属しているメディアとしては、(1)記者クラブが設置されている組織から特権的な便宜の提供を受けられる、(2)記者クラブから排除されている、雑誌メディアや外国メディアでは得ることができない情報を独占的に入手することが可能で、地道な取材なしに記事を仕上げることができる、(3)その組織内に、居室を提供されているため、その組織に出入りが自由で、組織の構成メンバーと容易に個人的関係を持つことができることなどの、大きなメリットがあります。

日本の主要報道機関は、記者クラブ制度によって成り立っている面があり、読者よりもニュースソースを大切にするという伝統があるようです。例えば、福島の事故以前には原発の危険性が、主要メディアではほとんど報道されてこなかったのも、電力各社、経済産業省、自民党などから構成される「原子力村」の構成メンバーの記者クラブに所属している主要メディアが、「村民」に都合の悪いことを意図的に隠してきたためと考えられます(この件については、最近気付いたことの『「核燃料サイクル施設」と「もんじゅ」が事故を起こせば、被害規模は原発事故の比ではない』をご参照ください)。日本の主要官庁や大企業には記者クラブがあるため、「原子力村」同様に、これら組織は、報道機関を自由に操ることができ、自分たちに都合の悪いことは報道させないという状態が続いてきたようです。その意味で、記者クラブは、国民を無知な状態に保つための最強の武器と言えましょう。

上の写真は、2012年6月29日午後8時頃に首相官邸前の十字路を埋め尽くした「脱原発」を叫ぶ市民の抗議行動を写したものです(主催者発表で、15―18万人が参加)。首相官邸は画面右手前方です。この十字路を囲む建物は、首相官邸から右回りに、衆院議員会館、国会議事堂、国会記者会館(写真正面左手の建物)です。国会記者会館は、地上4階、地下2階、延床面積6,115m2 で、すべて国会の記者クラブ(国会記者会、加盟メディアは159社)が利用しており、利用料はなんと無料です。Wikipediaによれば、「近隣の家賃相場から推算すると、年間8億円近い便宜供与がなされているともいわれる」そうです。記者クラブ加盟各社が、正に権力の中枢にオフィスを構えていて、無料で自由に使うことができるのは、権力の一部を構成しているためであると見なされても仕方がないと思います。また、フリーランスの記者、雑誌記者、海外の報道機関はこの組織から排除されていて、記者クラブの会員以外の報道機関は、この建物の屋上から取材することさえ、記者クラブから拒否されました。国会記者クラブに加盟している報道機関は、これだけ厚遇されれば、よほどのことがない限り、政府を批判するような記事は書けないであろうことは、容易に想像できます。

記者クラブのような組織は、以前韓国にもあったそうですが、2003年に盧武鉉(ノムヒョン)大統領がこの制度を廃止したため、日本以外にはこのような組織は存在しないそうです。また、この組織はあまりにも特異すぎて、英語への翻訳語が存在せず、英語圏では「kisha club」とか「kisha kurabu」と呼ばれているそうです(同書53ページ)。

南相馬市の桜井勝延市長が記者クラブ所属のメディアが退去したことに憤慨したのは、いつも便宜を提供してやって、手足のように使っているメディアが、一番必要なときに逃げ出してしまったためだと思います。南相馬市が、記者クラブ以外のメディアとも平等な関係を保っていたとすれば、ほかのメディアに連絡をとるなり、なんらかの情報伝達の方法が可能であったとみられます。

飼い犬」が手をかんだら?

ただ、記者クラブに所属して便宜を提供されているにもかかわらず、便宜を提供している組織を批判する記事を掲載する良心的かつ大胆な報道機関がときどき現れます。例えば、北海道で圧倒的なシェアを誇る北海道新聞(発行部数は113万部と、北海道の総世帯数268万の42%に相当)は、2003年11月からおよそ1年半にわたって、北海道警察の組織的な裏ガネ作り疑惑に徹底的に斬り込む調査報道を展開したそうです。その結果、北海道警察は報道の一部を認め、国と北海道に裏ガネを返還を迫られるという快挙を成し遂げました。北海道新聞は、この一連の報道により、2004年度の日本新聞協会賞を受賞したそうです(同書136ページ)。

しかし、その後の北海道警察の反撃はすさまじく、北海道新聞は道警から情報を全くとれなくなってしまったそうです。警察からの情報が得られなければ、報道機関としての存続が危ぶまれるのではないかと思います(このことから、記者クラブに所属していないメディアが、いかに不利な状態に置かれてのかも推測できます)。北海道警察の総務部長を務めていた佐々木友善氏が、北海道新聞取材班が関係した2冊の書籍(『警察幹部を逮捕せよ! 泥沼の裏金作り』(大谷昭宏・宮崎学・北海道新聞取材班著、旬報社刊、『追求・北海道警「裏金」疑惑』(北海道新聞取材班編、講談社文庫)での同氏についての記述に謝罪を求めた裁判での、裏ガネ疑惑の取材チームのリーダーだった高田昌幸(まさゆき)氏と記者の佐藤一(はじめ)氏の陳述書には次のように書かれているそうです。「ある道警(北海道警察の略称)幹部は、道警と道新(北海道新聞の略称)の関係について、『飼い主』と『飼い犬』に例えましたが、その例えに従えば、道警裏金報道は飼い犬から飼い主に対するある種の決別宣言だったのです。記者と情報をコントロール下に置きたい北海道警察にとってみれば、相当の危機感を抱いたことは想像に難くありません」(同書138ページに載っていた、『真実、新聞が警察に跪いた日』(柏書房)、高田昌幸氏著からの引用)。

事実上道警と道新の争いであったこの裁判は、結局、2011年6月に最高裁が双方の上告を棄却したことで、北海道新聞が佐々木氏に損害賠償金72万円を支払うように命じた一審および二審の判決が確定しました(同書141ページ)。その後、何人かの記者が同社を去り、記者という職業から離れた方もいらしたようです。「ジャーナリストとしての使命を誠実に果たした高田昌幸氏もまた、最高裁の決定が出た直後の2011年6月に北海道新聞を退職している(2012年、同じように高知県警の裏ガネ疑惑を追求している高知新聞に再就職したそうだ)。」(同署141―142ぺージ)。

何人かの記者が同社を去ったのは、同社幹部がこれら記者に対して、なぜか「けじめ」を付けることを求めたことが関係しているようです。また裁判の過程で、道新は道警に裏取引を持ちかけたことが明らかとなっています。つまり、道新が道警に『詫び状』を書くことや、佐々木友善氏に対して道新の公式顧問への就任を打診しました(同書141ページ)。これら記者の処分が、警察との関係改善のための裏取引の鍵であったと考えるのは当然とみられます。

この事件の成り行きについて、ファクラー氏は次のように述べています。「これが真実だとすれば、耳を疑う。なぜ裏ガネ問題という不正を追及した新聞社が自分から警察との関係を修復する必要があるのか。ジャーナリズムの自殺行為ではないか。」・・・「使命感を持って調査報道を進めた記者を守るどころか、閑職に追いやり、追い詰めていく。裏ガネ問題追及をやめ、警察当局寄りの組織に再構築する。そんなことを仮に新聞社が進めていたとすれば、もはや当局の一部そのものではないか。」・・・「もしアメリカで、公権力の不正を新聞が徹底的に追求すれば、何が起きるだろう。記事を読んだ市民が間違いなく怒り出す。有権者の怒りに対し、彼らに選ばれた立場の州知事は敏感だ。報道が正しいと判明すれば、州知事は組織のトップや幹部を総入れ替えするだろう。民主主義とは本来、そういうものだ。」(139―143ページ)

ジャーナリズムとは?

では、報道機関やジャーナリストが担うべきジャーナリズム何でしょうか。以下では、ファクラー氏のジャーナリズムに対する考え方を同書からご紹介します。

「社会革命によって国が成り立ってきたアメリカでは、国民は基本的に中央政府がやることに根強い疑問を持っているし、それは現在も変わらない。同じようにアメリカのジャーナリズムも、中央政府への批判精神を強くもっている。当局がおかしなことをやっていないか。ジャーナリストは、自分たちが当局のチェック機能を担おうという意識を強くもっている。・・・・アメリカ人のとって、ジャーナリズムは「Watch dog (番犬=権力の監視者)」であるべきだという強い共通認識がある。権力をじっと監視し、ひとたび不正を見つければ、ペンを武器にかみつく。だから、省庁や警察署内に詰め所を設けてもらい、各社の記者が寄り集まってプレスリリースをもらうなどという記者クラブのシステムは理解できない」(同署54―55ページ)。

「ジャーナリストとは、基本的に権力寄りであってはならない。権力の内側に仲間として加わるのではなく、権力と市民の間に立ちながら当局を監視し、不正を糺(ただ)していく。〔引用者追記:9.11の同時多発テロ後に、チェイニー副大統領のスタッフから聞いた「イラクに大量破壊兵器が存在する」という捏造(ねつぞう、つまりでっち上げ)情報をそのまま報道して、2003年3月20日の米国による対イラク開戦の根拠を与えた、ニューヨーク・タイムズ所属の〕ジュディス・ミラー記者のように権力に近づきすぎたジャーナリズムのことをアメリカでは批判的に「アクセス・ジャーナリズム(access journalism)」と呼ぶ。・・・日本の記者クラブが生み出す一連の報道は、私から見るとまさしくアクセス・ジャーナリズムそのものだ。当局や大企業と近い距離を保ちながら書く記事は、有形無形のバイアスがかかってしまう。だが、日本では記者クラブ制度とアクセス・ジャーナリズムを結びつけた批判は極めて限定的だ。」(同書130―131ページ)

「私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力側と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑(引用者追記:政府・官吏を尊く、民間・人民を卑しいとすること)」の思想が心の奥深くに根をはっているように思えてならない。///読者(庶民)の側に立たず、当局(エスタブリッシュメント)の側に立って読者を見くびる。記者クラブという連合体を結成し、官僚機構の一部に組み込まれる形でプレスリリースやリーク情報を報じる姿勢がそれを裏付けている気がしてならない。///日本の新聞記者は、あまりにもエリート意識が強すぎるのではないだろうか。・・・日本の大手新聞は、官僚機構が最もいやがるニュースを率先して報道しようとはしない。ある新聞だけに特ダネをにぎられたら困るから、記者クラブのみんなで話し合って特定の新聞だけが違う方向へ向かわないようにする。自分だけ情報をもらえなくなっては困るから官僚機構とのけんかを避け、同じインナーサークルのなかで手を取り合う。記者クラブ制度がなぜ日本で問題視されないのか不思議だ。」(同書150―151ページ)

「なぜ日本の記者クラブメディアは原発事故をめぐる報道で真実を暴き出せなかったのだろうか。ブルームバーグで記者として働き始めたころ、先輩が私に教えてくれた言葉をいまでも胸に刻んでいる。

「A good journalist needs a sense of moral outrage (良いジャーナリストには正義感<=悪に対する人間的な怒り、義侠心(ぎきょうしん)>が必要だ)」

福島県浪江町の町民たちに、なぜ政府や福島県はSPEEDI(引用者追記:文部科学省の放射能拡散予測システム、原発爆発直後に拡散を正確に予測していたにもかかわらず、政府はその予測の内容を一部のメディアだけに伝え、これらメディアはこの予測内容について報道することはなかった下の追記もご参照ください)の情報をいち早く知らせなかったのか。SPEEDIデータ隠蔽の事実に気付いたとき、私の胸のなかに「a sense of moral outrage(悪への怒り)」が燃え盛った。その怒りが一連の調査記事に結びついた。」(同書219―220ページ)

2013年4月24日追記:SPEEDIについて、2013年4月1日付でNHKを辞められた堀潤アナウンサーは退職前の3月11日に次のようにツイートしています・・・堀 潤 JUN HORI@8bit_HORIJUN 3月11日

「震災から2年。原発事故発生のあの日私たちNHKはSPEEDIの存在を知りながら「精度の信頼性に欠ける」とした文部科学省の方針に沿って、自らデータを報道することを取りやめた。国民の生命、財産を守る公共放送の役割を果たさなかった。私たちの不作為を徹底的に反省し謝罪しなければならない。」


中国のメディアの方が日本の記者クラブメディアよりも体制を批判している

ファクラー氏によれば、「一党独裁の警察国家である中国の記者のほうが、日本記者クラブメディアよりも体制を批判している・・・もちろん中国においては、共産党批判などメディアが触れられないタブーも存在する。そうした制限があるなかで、社会の不正や政治の腐敗などに憤る一部の気骨ある中国人記者たちはがんばっている。もし中国で自由に取材・報道ができるようになれば、すばらしいジャーナリズムが誕生すると思う」(同書178ページ)。

ファクラー氏が高く評価している広東省の「南方週末」という週刊誌では、2013年1月3日付の記事が広東省共産党委員会の庹宣伝部長によって書き換えられたことに抗議した記者ら100人が抗議行動を起こしました。この抗議行動に対しては、ネットを通じて一気に支持が広がったそうです。Wikipediaによれば、「結果として広東省共産党委員会の庹宣伝部長の辞任の確約を得たほか、記事の事前審査も廃止させるなどの成果を勝ち取った。しかし、合意内容が着実に履行されるかは不明な点も多い。とはいえ『南方週末』もこれ以上の抗議継続は得策ではないと判断し、痛み分けの妥協を行ったとの見方もなされた」そうです。この事件はまだ終わっていないようです。

厳しい言論統制が実施されている中国でさえ、このような抗議活動が活発化したのに対して、日本の主要メディアは、記者クラブ制度にあぐらをかいて、自主規制を決め込んでいるのは情けない限りです。例えば、安倍現首相と、酔いどれ記者会見で世界的に有名になった故中川昭一氏(当時は・経済産業相)が、従軍慰安婦問題を扱ったNHKの特集番組「問われる戦時性暴力」の内容の大幅な修正をNHKに求め、その結果大幅に修正された番組が放送された際のNHKの対応を比較すると、どちらが一党独裁国家なのか分からなくなります(この件については「最近気付いたこと」の『NHKが平壌放送になった日』をご参照ください)。

安倍首相に対する目は複眼へと切り替わるべきと言っておきながら、太鼓持ちに終始

朝日新聞の政治部長である曽我豪氏が書かれた、「(ザ・コラム)安倍首相「私ども」から「私」へ その心は」という記事(『朝日新聞』2013年3月31日付)は、大新聞の政治部長が何を考えているのかが分かって大変参考になりました。

「(政治記者は)政治家とつるんでいるかのように思われて、昨今、なにかと評判のよくない商売だ・・・」(第1段落2行目)と書かれているところを見ると、ご自分たちの立場をある程度は自覚されているようです。ただ、ご自分のお仕事を「評判のよくない商売だ」と卑下する辺りは、一般大衆には分からないだろうが、彼らの将来を左右する重要な問題を扱っているのだという自尊心の裏返しという感じもします。

一度挫折したのに大丈夫なのかという懸念がある一方で、決められる政権などと持ち上げられることもあることに対して、「安倍晋三首相も、このうつろい(引用者追記:変化)の浅薄さを鼻白む(引用者追記:興ざめした)思いで観察しているのではなかろうか」(20―23行目)・・・そこまで読むとはさすがです。『蜘蛛の糸』のお釈迦様のような感じで、一般大衆の「うつろいの浅薄さ」を首相宮廷(裏からみるとチベットのポタラ宮にそっくり)の高みから見下ろしているという感じですが、この高い視点はそのまま曽我豪氏の立ち位置でもあるような印象を受けます。

第2段落では、07年夏の参院選では安倍首相は「私たち・・」、「私ども・・・」を主に使っていたことからも分かるように、相次ぐ不祥事や年金問題に対する責任の所在をあいまいなままにしていたそうです。これが政権の挫折の一因となったのに対して、「この春、「ども」が消え・・・一人称単数形への変貌」つまり「私は・・・」を主に使うようになり、自らの判断であることを示すようになったそうです(第2段落)。

いまは好調でも景気動向など今後の展開次第で首相は批判の矢面に立つことになろう、それは危険な賭である・・・などという批判に対しては、「・・・側近と周辺の言を集めればまさに2度目の秘訣は『焦って全部を進めようとした1度目の反省から、国民のニーズを踏まえた優先順位を大切にしている』ことに尽きるからだ」(第3段落13行目)・・・と安倍首相を持ち上げているようです。ただ、アベノミクスが、国民のニーズを踏まえた優先順位に基づいているかどうかは、見方によって大きく異なると思います。日銀が供給する通貨(マネタリー・ベース)を2年間で2倍にすれば、インフレになり、資産家、大企業には恩恵がもたらされますが、一般庶民は物価高が生活を直撃し、年金生活者は、年金の目減りで生活が苦しくなるだけでなく、財政規律が失われ、三菱東京UFJ銀行が2016年頃と想定している国債金利の急上昇(つまり国債価格の急落)が早まる可能性が高まるとも言えるからです。

安倍首相が2007年当時とは異なり、タカ派色を前面に押し出していないことについては、「私(引用者追記:つまり安倍首相)」が「最終判断」をする時期を見極める必要があり、「僕ら政治記者が権力をみる目も、おのずと複眼へと切り替わるべきときを迎えたようである。」(最後の部分)・・・朝日新聞の政治部長ともあろうお方が政治をこれまで単眼で見られていたとは驚きであると同時に、複眼へと切り替えるべきであることは、当たり前過ぎて、2000字を費やした署名記事の結論として読者に伝える必要がある情報なのか疑問です。

また、この文章の表現方法(レトリック)は、かなり難解で、わたしの場合内容を理解するまでに3回くらい読まなければなりませんでした。さらに、「安倍晋三首相も、このうつろいの浅薄さを鼻白む思いで観察しているのではなかろうか」辺りは、権力者の内面まで把握していることを鼻に掛けている感じがするだけでなく、文章全体としても自分が権力機構の一部であることを暗に示すことによって、文章に権威を持たせようとしている感じがうかがえます。結論が「複眼へと切り替えるべき」と言っていながら、安倍首相の太鼓持ち的な内容に終始している点は、自己矛盾という感じです。

民主主義実現の必要条件

最後にファクラー氏の日本の記者クラブメディアへのアドバイスをご紹介します。

「記者クラブメディアの本当の被害者は、・・・・日本の民主主義そのものだ。「権力の監視」という本来の役割を果たしていない記者クラブメディアは、権力への正しい批判ができていない。福島第一原発事故の教訓が生かされぬまま、再稼働が決定された福井県の大飯原発がいい例だ。・・・なぜ日本の大手メディアはもっと怒りの声を上げないのだろう。報道を見ていると、批判はしていてもどこか他人事だ。メディアが権力を批判し、社会に議論を起こさなければ、健全な民主主義は絶対に生まれない」(同書220―221ページ)(2013年4月10日)。

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